歴史探訪④大中寺と謙信平

大中寺山門とアジサイ

 太平山の南麓中腹に曹洞宗の古刹・太平山大中寺(栃木市大平町西山田)がある。
この寺を訪れるには、6月中旬の梅雨の時期が最もよい。
 小雨のなか、杉木立に囲まれた、あじさいに彩られた広い参道の階段を登っていくと、古めかしい小さな山門に着く。山門は、かつて戦国の名将皆川広照の居城だった皆川城の搦手門(からめてもん:正面の大手門に対する裏門を指す)を、元和2年(1616年)に移築したものといわれており、皆川城の唯一の建築遺構である。
 伝承によれば、大中寺は、平安末期の久寿年間(1154~1155年)に真言宗寺院として創建されたとされている。その後荒廃したが、室町時代の延徳元年(1489年)に当時山田郷(現栃木市大平町西山田)を支配していた小山成長(おやま しげなが)が快庵妙慶禅師を招いて曹洞宗の寺として再興したと伝えられ、この時が大中寺の実質的な創建とみなされている。

 大中寺は、上杉謙信ゆかりの寺として知られる。
永禄3年(1560年)に、越後の上杉謙信は関東管領職を受けて北関東に進出した。翌年永禄4年(1561年)には、11万5千余騎もの大軍をもって、北条氏の本拠小田原城を攻めている。本文「皆川俊宗の時代」でも触れた「関東幕注文」はこの頃のものである。
 当時、大中寺の6世住職快叟良慶(かいそう りょうけい)は謙信の叔父(または伯父)であったことから謙信はこの寺を厚く保護し、永禄5年(1562年)に焼失した伽藍の再建・修復を行ったとされている。

 謙信と良慶の関係を示す一次史料として、永禄9年(1566年)2月に大中寺の快叟良慶が、佐野在陣中の謙信を労う文書(栃木市史資料編古代・中世263 上杉家文書)が残っている。現代語に訳すると次のとおり。

【大中寺良慶書状 上杉家文書】

佐野御在陣について、取り急ぎ申し上げるべきところ、朝夕にわたる御普請(ふしん) に取り紛れていると伺ったので、よく考えて差し控えた。また、総州方面への御出馬 は、際限なき御陣労である。しかしながら、このたびの関八州問題の決着、四海無為 にして、早速の御帰陣を願うものである。
   仲陽吉日         良 慶
     山 内 殿

 大中寺の快叟良慶と謙信との親交の深さを知る貴重な史料である。
 「朝夕にわたる御普請」とは、もともと禅宗の用語で、普(あまね)く人々に請(こ)うことであり、禅宗の信徒が力を合わせて修行としての作務労役に従事することを意味している。謙信の佐野在陣を、禅宗でいうところの「朝夕の普請」になぞらえている。
 また、「四海無為」(しかいむい)とはもともと中国の政治思想で、「無為の治」を理想の政治とすることに由来している。曹洞宗では座禅によって欲を離れ「無為」(平安の境地)に近づくことができるとしている。謙信の軍事行動と禅の教義との対比が知れて大変興味深い。
 こうした手紙を陣中に送るなど親密な関係もあって、後に謙信が、総州方面の合戦の帰路、良慶のもとを訪れ、謙信平まで登ったという伝承につながっている。

ちなみに、「皆川歴代記」(「改訂 口語皆川歴代記」原本著書 皆川又太郎 口語訳者小松義邦 令和7年9月1日発行)24頁に、永禄9年4月に、上杉謙信が大中寺を訪れ、俊宗、広照父子と対面し、その後、太平山上で宇都宮氏と皆川氏との合戦を見物したことが描かれている。「栃木市史」608頁にも、永禄9年に謙信が「大平山に登り皆川俊宗と会見した」とある。しかし、このとき(永禄9年)の謙信は、3月の臼井城(佐倉市臼井)攻防戦で大敗を喫した直後であり、謙信から離れて行く関東武将も多勢現れている状況のなか、のん気に合戦の見物をしている余裕などありようもなく、栃木市史等の記述を裏付ける一次史料も見当たらない。むしろこの時期の皆川氏は、上杉謙信とは微妙な関係にあったことが「小田氏治味方地利覚書」(「上杉家文書」鹿沼市史資料編279頁)に残されている。この文書は永禄7年(1564年)に比定され、上杉方の小山氏・宇都宮氏と壬生氏・皆川氏は「とり合う」(対立する)関係にあったことが記されている。

 また、永禄11年(1568年)に、上杉謙信と北条氏康とが和議を結んだのもこの寺と伝承されている。その後、謙信は、大平山に登って関東平野を見下ろしたと伝えられ、その場所を現在「謙信平」と呼んでいる。

 では、本当に謙信と氏康がこの寺で和議を結んだのかどうか検証してみよう。この時の上杉氏と北条氏との和議は、甲駿相三国同盟が崩壊した後、北条氏が武田氏に対抗するため、それまで敵対していた謙信に和議を申し出たもので、越相一和(えつそういっか)、あるいは越相同盟と言われているものと推測されている。
 しかし、一次史料では、越相一和は、永禄12年(1569年)閏5月に双方の合意に達し、6月9日付け謙信宛て北条氏政書状(上杉家文書)には、謙信からの血判誓詞が到着し、北条氏康・氏政父子は自身の血判誓詞を謙信の使いの僧・広泰寺昌派に渡した、と記されている。(新編埼玉県史 資料編6中世2 566文書)また、上杉氏と北条氏の接近のきっかけとなったのは、永禄11年(1568年)12月6日武田信玄の駿河侵攻であるので、上杉・北条の和議の交渉が始まったのはそれ以降のことであり、永禄11年の段階で両者が和議を結ぶことはありえない。さらに、この時代の同盟関係は、起請文(誓詞)の交換をもって和議成立とするのが通例であり、越相一和もその作法にのっとって行われた。永禄12年6月9日付け氏政書状の内容からいって和議成立時またはそれ以前に、謙信と氏康が大中寺を来訪し和議を結んだとは考えにくい。

謙信平からの眺望

 また、史料的制約もあり、北条氏康が大中寺を訪れた一次史料は現在のところ確認できないが、弘治3年(1557年)2月24日付けで氏康が大中寺領安堵の旨を約束した文書(大平町史123頁)が残っている。なお、この文書の「大中寺」は、太平山麓にある山田の大中寺のことではなく、小山高朝が新たに創建した榎本にある大中寺のことであるが、当時、山田の大中寺と榎本の大中寺は法脈を争って分裂・対立していた。氏康はこのことを認識したうえで発した文書と推測される。さらに、氏康の孫に当たる北条氏第5代当主・北条氏直が、皆川領の富田に出張した際に大中寺に立ち寄り見物したとされる覚書(北条氏遺臣・桜井武兵衛覚書)がある。氏直が大中寺を訪れたのは、同時期の史料である「天正14年比定5月19日付け大掾清幹書状」(第3章3-4に史料掲載)から天正14年(1586年)5月のことと推定されており、皆川氏が北条氏に降伏した時期と重なる。このとき氏直は、皆川氏の降伏を確信しているがゆえに、余裕をもって皆川氏領内の大中寺を見物したのだろう。こうした史料から読み解くと、北条氏の歴代当主が大中寺の存在を十分認識していたことをうかがい知ることができる。

 江戸時代になると、大中寺は徳川家の信任厚く曹洞宗の徒弟修業の道場として栄え、関東における曹洞宗寺院の管理に当たる関三刹(かんさんさつ)といわれる寺になる。江戸時代末期まで曹洞宗総本山永平寺の住持(住職)は,下野大中寺,下総総寧寺,武蔵竜穏寺の3か寺の住職経験者から選出される制度となっていた。

 江戸時代後期に書かれた上田秋成の「雨月物語」の「青頭巾」は大中寺を舞台として書かれた物語で、愛する稚児を失った悲しみのあまり人食鬼となった僧侶を、旅の高僧・快庵禅師が解脱(げだつ)に導き大中寺を再興する、という怪奇な仏教説話である。また、この寺に伝わる七不思議の伝説「不断のかまど」「油坂」「根なしの藤」「馬首の井戸」「不開の雪隠」「東山一口拍子木」「枕返しの間」も有名である。

 伝説とは別に、大中寺を訪れたなら必ず見ていただきたいものがある。江戸時代末期から明治にかけて活躍した富田の彫刻師・磯辺一族が手掛けた装飾彫刻の傑作である。特に磯辺凡龍斎信秀(本家第4代信秀)が彫った本堂・海老虹梁(えびこうりょう:エビのように湾曲した形状のはり)と本堂の左手奥にある開山堂の彫刻群は見ごたえがある。観覧は自由なので、訪問したなら手を合わせたうえで拝見するとよい。

大中寺 本堂

磯辺凡龍斎信秀(本家第4代信秀)作 本堂・海老虹梁

本堂の左手奥にある開山堂

開山堂の向拝部彫刻

 今では大中寺のある太平山南麓には観光ぶどう園が広がり、7月から9月にかけては多くの観光客で賑わう。太平山は桜の季節もまた見事である。

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