歴史探訪②足利有綱と下野島津氏
栃木市内に秀郷流藤姓足利氏の武将・足利有綱の墓があることを知る人は少ないだろう。
足利有綱は、戸矢子有綱(へやこ ありつな)とも呼ばれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した武将として知られる。有綱の子が佐野氏の初代当主基綱であり、戦国時代まで続く佐野氏の祖とも言われている。
栃木市と有綱の関係でいえば、本文で述べたとおり、下野在庁官人小山氏と戸矢子保の権益争いに勝利し、戸矢子の現地管理者である保司となったのが足利有綱である。
その有綱の墓が栃木市内にあるというので訪ねてみた。
栃木市中心部から県道32号栃木粕尾線を北西に進み、八角錐の屋根の塔を備えた千塚小学校の交差点を左にまがり、800mほど進むと永野川が見えてくる。永野川にかかる「千塚橋」を渡ると、かつて千手(せんじゅ)村といわれた集落がある。千手村は明治9年(1875年)犬塚村と合併し千塚村になった。
この旧千手村には真言宗大悲山平等院大安寺がある。寺の本堂に向かって左手に観音堂が立っていて、正面欄間に「千手観世音」の扁額が掲げらている。おそらく旧千手村の名はこの千手観音からきたものなのだろう。観音堂の扉のガラス越しに、金色に輝く千手観音座像を見ることができる。
平等院大安寺本堂の裏手に足利有綱の墓がある。
佐野氏の祖・有綱の菩提の為に、安蘇郡戸室(現佐野市戸室町)にあった大悲山平等院大安寺を、大永3年(1532年)に現在の所に移したとされている。
ちなみに寺の院号、平等院とは有綱が若き日軍功をたてた、宇治の平等院に因んだものとされている。平等院のある千塚町はかって、戸矢子保に属していた所で佐野氏の勢力圏であった。この地域の拠点強化のためにここに平等院を移したとも言われているが確定できる史料は見当たらない。

足利有綱の墓と伝えられている墓
戸矢子保の所職は、有綱の娘戸矢子尼、そしてその子加賀局に引き継がれ、加賀局の2番目の夫が島津忠佐(ただすけ:島津氏の祖・島津忠久の孫)とされ、その子盛忠に引き継がれたと伝えられている。こうして下野国の島津氏がやがて梅沢、千手、寺尾の領主となっていくのである。
戦国時代には、島津氏は「小曽戸」と姓を変え、佐野氏の有力な家臣となっている。なお、栃木市西北部にある不摩城(秋葉城)、藤沢城、梅沢城は、いずれも島津氏=小曽戸氏及びその一族の山城で、県道32号栃木粕尾線沿い鍋山町にある藤沢城址の麓には、今も御子孫の方が居を構えている。

不摩城(秋葉城)址を望む

藤沢城址入口

源頼朝から下賜されたといわれる家紋「丸に十字紋」を掲げた蔵
足利有綱に関連する史跡としては、栃木市都賀町木村に鎌倉時代初期とされる「木村氏館跡」がある。この館跡は、戸矢子保の一部であった木村保に足利有綱の五男・木村五郎信綱が保司として館を構えた跡と伝えられている。木村保は、現在の栃木市都賀町木村・臼久保・大橋、栃木市仲方・梓にわたる領域を有していた。館跡は、現在北側・東側に土塁・堀跡らしきものが残っているだけで、寂しい限りだ。
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