第2章 長沼氏から皆川氏へ
関東八屋形長沼氏から皆川俊宗の時代までを探る
2-1 下野国から会津南山へ
下野国衙で有力な在庁官人であった小山政光の子に、鎌倉幕府の有力御家人として活躍した小山四郎朝政、長沼五郎宗政、結城七郎朝光の兄弟があり、このうち宗政を始祖とし、下野国長沼荘(真岡市)を領した一族が長沼氏を名乗ることになる。しかし、その長沼氏が会津南山に移り、関東の大乱(永享の乱・享徳の乱)のなかでどのように活動していたのかを検証してみる。
長沼宗政
皆川文書の由来
永享の乱・享徳の乱
長沼宗政
長沼氏の祖・宗政はどのような人物であったのか。その気性を表す逸話が「吾妻鏡」建保元年(1213年)9月26日条に記されている。
文人肌の三代将軍源実朝を批判して「実朝殿は、蹴鞠にうつつをぬかし、武芸は廃れてしまったようだ。女性ばがりを大切にし、勇士のことはまるで眼中ない。」と言って出仕をとどめられるほどの「荒言・悪口(こうげん あくこう)の者」とされていた。しかし、これほどまでの実朝に対する手厳しい批判にもかかわらず、その翌月には御所への出仕を許される。おそらく、宗政の発言は、実朝に仕える御家人たちの共通認識であったのだろう。秀郷の末裔であり武勇で知られる宗政が、鎌倉幕府内でいかに重んじられていたかを知る手がかりとなるものである。(江田郁夫著「下野長沼氏」29頁)
南北朝時代に書かれた歴史書「梅松論」は、箱根竹ノ下合戦(足利尊氏軍と、尊氏追討の命を受けた新田義貞軍との合戦)における小山・結城・長沼一族について次のように評している。
かれらは、治承・寿永の乱で源頼朝が挙兵をしたときに、最前に馳せ参じて忠節を果たした小山下野大丞藤原政光入道の子孫である。先祖武蔵守兼鎮守府将軍藤原秀郷朝臣は、承平・天慶の乱で朝敵である平将門を打ち取り、子々孫々にわたって鎮守府将軍の職を世襲した五代の将軍の末裔でもある。累代の武略の誉を残し、弓馬の家の達人といえる。
「梅松論」は足利方(北朝)の立場で書かれたものなので、足利方の小山・結城・長沼三氏を「武略の誉」「弓馬の家の達人」と称えるのは当然のことだが、歴史的事実はさておき当時の武士層が小山・結城・長沼三氏にいだく認識を多少なりとも反映しているものであろう。
その長沼氏は、鎌倉時代には下野国長沼荘のほか、陸奥国南山(福島県南会津町ほか)、武蔵国柏原郷(埼玉県狭山市)、美濃国石太郷(岐阜県大野町)、美作国大野保(岡山県美作市)、備後国内平野保(広島県福山市)、淡路国守護・地頭(兵庫県)など全国各地に所領・所職を有していた。
室町時代には、関東八屋形(かんとうはちやかた)の一家として名族の家格を有することになる。
「関東八屋形」とは、応永6年(1399年)、足利満兼が第3代鎌倉公方に就任するに際し、鎌倉公方から「屋形号」を称することが許された関東の有力諸家のことである。宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指す。
しかし、長沼氏の惣領家(宗政以来の淡路守の受領名を継承する一族)は、享徳の乱(1454~1482年)を契機に没落する。
代わって同じころ、一時会津南山(福島県南部)から下野国皆川荘(栃木市北西部)に拠点を移した長沼惣領家の一族(支流)が皆川氏である。
なお、鎌倉時代末期に同じ皆川氏を称する一族(いわゆる「第一次皆川氏」)がいたことが確認できる。この第一次皆川氏は、長沼宗政の孫宗員(むねかず)が、承久の乱後、寛喜年間(1229~1232年)に下野国皆川荘を鎌倉幕府から新恩として与えられ、皆川に拠点を構えものである。宗員の兄弟である時村の名字は「筥室」(はこのむろ)と称していることから、時村も皆川荘内の「箱森」(現栃木市箱森付近)を領していたものと推測されるが、宗員の一族の皆川荘支配についての詳細は不明である。
皆川文書の由来
ここからは、皆川広照につながるいわゆる第二次(重興)皆川氏について検討していきたい。
長沼氏の一族が皆川荘に入部するまでの経緯については、史料的制約から不明な点が多いものの、江田郁夫氏は著書「室町幕府東国支配の研究」のなかで、「鎌倉府体制下の長沼氏」と題して詳しい論文がある。本書は江田郁夫氏の論文をベースにして、筆者の見解を加えながら検討していきたい。

長沼惣領家は、南北朝の動乱に本領長沼荘の維持が困難になり、14世紀の中ごろには、惣領家の長沼秀直は下野国長沼荘を離れて、陸奥国南山(福島県南会津町ほか)に拠点を移した。
その後、長沼氏中興の祖といわれる長沼義秀のとき、第3代鎌倉公方足利満兼の命令で、応永7年(1400年)、下野国長沼にとどまっていた庶子家一族の長沼又四郎(「駿河守系長沼氏」と呼ばれる)の所領が惣領家・長沼義秀のもとへ返還が実現する。
しかし、義秀の嫡子満秀・嫡孫憲秀があいついで早世してしまったため、義秀は嫡孫憲秀の子で、自らの曽孫である彦法師に家督を継がせることにした。ところが、これに対し、時の第4代鎌倉公方足利持氏は、応永33年(1426年)この家督継承に介入した。持氏は、義秀の意向を無視して幼い彦法師では一族・家臣の掌握は無理とみて、彦法師が元服を果たし一人前(15歳)になるまでは、彦法師の父憲秀の弟の次郎(実名は不明)が「相計らうべき旨」(取り仕切る)ことを命じた。それを伝える文書が「皆川文書」にある「(年不詳)6月2日付け長沼淡路入道殿宛て足利持氏書状」(栃木県立博物館研究報告書「皆川文書」長沼氏から皆川氏へ 66頁参照)である。憲秀の没年については応永33年(1426年)正月以降と推定(前掲栃木県立博物館研究報告書 66頁参照)されており、文書発給年も同年に比定されている。
これにより、長沼氏の所領・所職ばかりでなく、代々相伝の文書は、次郎の管理下へと移される。この次郎系の長沼氏一族(以下「次郎系長沼氏」という。)が、後の第二次皆川氏(以下「皆川氏」と表記する)になる。鎌倉公方足利持氏の裁定どうり次郎が惣領家の家督を臨時的に取り仕切った後、彦法師が元服し家督を継承したが、今に残る長沼惣領家創設以来の相伝文書(いわゆる「皆川文書」)は、次郎系長沼氏がそのまま管理し続けたため、皆川氏に伝わっていると推定される。
なお、現在、皆川氏関係の文書は、国の重要文化財に指定されている文化庁保管文書61通(皆川家文書)と、栃木県立博物館に寄託されている文書47通(皆川文書)とがある。国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の「淡路国大田文(おおたぶみ)」は、栃木県立博物館に寄託されている文書に含まれている。


淡路国大田文(国重要文化財)(個人蔵、栃木県立博物館寄託)
永享の乱と享徳の乱
長沼氏惣領家の家督が、鎌倉公方足利持氏の裁定どおり次郎から彦法師に移った後、永享10年(1438年)、足利持氏は関東管領上杉憲実を討つべく挙兵し「永享の乱」が勃発し、関東を二分する内乱に発展した。
このころの長沼氏の動向を知る史料として、「皆川文書」に残された篠川(ささがわ)公方足利満直書状(栃木県史 史料編中世1 32号)に興味深い記述がある。
【年不詳2月11日付け安房守宛て篠川公方足利満直書案 皆川文書】
原文:永沼淡路守罷上之由其聞候、彼仁之事、不可有許容候、永沼次郎事、今度令出陣、致忠節事候、其上理運無是非候、近日可致入部候、別而被加扶候者、悦入候、委細之旨、白川弾正少弼・小峯参河守可申候、謹言、
2月11日 御判
安房守殿
現代語訳:長沼淡路守(彦法師)が(釈明のため鎌倉へ)参上したとのことだが、彼を許してはならない。長沼次郎のことは、このたび出陣をして忠節を励んだ。そのうえ勝敗はいうまでもない。(次郎は)近日中に入部する予定である。別してご支援いただければありがたい。詳しくは白川・小峯が申し上げる。
篠川公方足利満直が安房守(関東管領上杉憲実)に宛てた書状の写しである。 この書状によると、篠川公方足利満直は長沼淡路守の行動は許せないが、自分に与同し戦功をあげた長沼次郎に対しては、恩賞として関東への入部を認めることとした。関東管領上杉氏にその支援をお願いする、という内容である。関連する同時代書状から永享11年(1439年)発給と比定されている。
長沼淡路守とは長沼氏惣領家代々の受領名で、元服後の彦法師のことである。彦法師は後の淡路入道生空と同一人物と推測されている。
また、彦法師は、すでに曾祖父義秀のときに復権に成功した長沼氏の本領・下野国長沼荘に拠点を戻しており、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱では、惣領家は鎌倉公方の足利持氏側に与同する立場をとっていた。
一方、家督を彦法師に譲っていた長沼次郎は、奥州にとどまり篠川公方足利満直に与同し室町幕府=関東管領上杉氏派の立場にあった。長沼次郎に関して「皆川文書」(栃木県史 史料編中世3 35号)には、「佐々川上様 (中略)、于今祗候仕候」(今は篠川公方様の近くにお仕えいたしている)という記載があり、次郎は、永享の乱の当時は、篠川公方の居館にいて公方にお仕えする立場だったといえる。(影山一弥著「室町幕府の東国政策」104ページ参照)
こうして、永享の乱を契機に、長沼氏は、下野国長沼荘を拠点とする惣領家(代々淡路守を名乗っていたので、以下「淡路守系長沼氏」という。)と陸奥南山を拠点とする次郎系長沼氏とに完全に二つに分裂したのである。
ここで、歴史教科書ではなじみの薄い篠川公方足利満直について若干補足説明をしたい。
足利満直は、兄である鎌倉公方足利満兼の命を受けて奥羽の抑えとして陸奥国安積郡篠川(現福島県郡山市安積町笹川)に派遣され、篠川公方と呼ばれていた。本来、篠川公方の主要任務は、奥州の反鎌倉府勢力に対抗することであったが、鎌倉公方足利満兼の死後、自分の甥である持氏に代替わりをすると、次第に篠川公方足利満直と鎌倉公方足利持氏との関係が悪化し、永享の乱では、篠川公方満直は親室町幕府勢力へ転換し、南奥州における反鎌倉府勢力の政治的な中核となった。
しかし、永享11年(1439年)2月10日、鎌倉公方足利持氏は、室町幕府の命令を受けた上杉憲実らに永安寺を包囲され42歳で自害して永享の乱は終わる。「皆川文書」に残された安房守て宛て篠川公方足利満直書状の日付けの1日前の出来事であった。
一方、室町幕府=上杉憲実派の篠川公方足利満直も、永享の乱後の結城合戦の最中の永享12年(1440年)6月24日に下総国結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起し、篠川御所が襲撃され自害に追い込まれた。
永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、その後、室町幕府により鎌倉府再興が承認され、足利持氏の子・足利成氏が第5代鎌倉公方に就任する。しかし、享徳3年(1445年)12月27日、成氏が関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺したことを契機に、成氏と室町幕府=関東管領上杉氏派とが再び全面対決する享徳の乱が起きる。享徳の乱は断続的に28年間続いた。その間、成氏は享徳4年から下総古河に本拠を定め、それ以降古河公方と称されることになる。
享徳の乱の時、下野国長沼を本拠としていた長沼惣領家・淡路守系長沼氏は、室町幕府=関東管領上杉氏派に属する政治的選択の失敗もあって没落する。
代わって、次郎系長沼氏は、やがて戦国時代に下野国皆川荘を拠点として有力化する皆川氏に発展する。
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