歴史探訪 慈覚大師円仁と小野寺の里

秋の大慈寺①
慈覚大師円仁と大慈寺
小野寺の里
一遍上人と住林寺
村檜神社
栃木市中心街から車に乗って県道75号・栃木佐野線を西に向かうと、約20分ほどで慈覚大師円仁が幼いころ修行に励んだ大慈寺(だいじじ)のある小野寺の里に至る。小野寺の里は、大慈寺のほか、一遍上人ゆかりの住林寺や社殿が国重要文化財に指定されている村檜神社など豊かな歴史的環境の残る山里である。晩秋の紅葉も素晴らしいが、雨に煙る山並みが墨絵のように浮かぶ時期も情緒があってよい。
慈覚大師円仁と大慈寺
小野寺の里を訪れたなら、まずはじめに小野寺山大慈寺を訪れたい。大慈寺の山門にはつぎのような掲示がある。

大慈寺は、慈覚大師円仁が9歳から15歳までの6年間修業したところで、「現存する栃木県最古の寺院」とある。
慈覚大師円仁(794~864年:第三代天台座主)は、延暦13年(794年)、下野国都賀郡(しもつけのくに つがのこおり)に生まれた。
二次史料ではあるが「熊倉系図」(鈴木真年編「百家系図稿」所収)によると、父は東山道の三鴨駅長(みかもえきちょう)を勤めていた壬生公首麻呂(みぶのきみ おびとまろ)とされている。
円仁が生まれた延暦13年(794年)は、桓武天皇が都を長岡京から、平安京に遷都した年である。出生地については、現在、壬生町説と栃木市岩舟町説とがある。円仁の家が大慈寺の檀越(だんおつ:寺の経営を支援する檀家のこと)であったこと、父親が東山道の三鴨駅家(みかもうまや:現栃木市岩舟町畳岡と推定されている)の長で、大慈寺厳堂建立の寄進者であったこと、その大慈寺の高僧広智(こうち)のもとで仏教を学んだという生い立ちからすると、壬生町誕生説はかなり分が悪い。

推定東山道下野国南部の駅家の位置(上三川町ホームページから引用)
平安時代に編纂された国の正史である「日本三代実録」によると、貞観6年(864年)正月14日条の円仁卒伝には次のように書かれている。
年甫九歳にして、広智菩薩に付託す。円仁、幼くして警俊、風貌温雅なり。其の兄、外典を以てこれを教える。然も猶心仏道を慕う。嘗て経蔵に登り、誓って観世音経を探り得て、心甚だ歓喜し、遂に俗書を抛うつ。経論を受学し、俄かに諸部に通渉して、大旨を領悟す。 (酒寄雅志「円仁と『法華経』」から引用)
円仁は幼くして兄から儒教を学んだが、仏道を慕って経蔵で「観世音経」を見つけて歓喜したという。このことは、家庭の豊かさと文化的教養につつまれた余裕のある環境のなかで生まれ育ったことを暗示している。9歳(以下数え年で表記)で大慈寺の高僧広智(こうち)の弟子になった。広智は、下野薬師寺の道忠(どうちゅう)の弟子である。道忠は、中国の天台宗第4の祖師と伝わる鑑真和上の弟子で、天台宗とは関係が深かった。

秋の大慈寺②
大同3年(808年)、15歳になった円仁は、広智に連れられ比叡山に上り、最澄の弟子となる。承和5年(838年)遣唐使の留学僧として、唐に渡り、約10年間五台山、長安などで密教を学び、承和14年(847年)多くの仏典・仏画・書写等を携えて帰国した。 円仁は、出航から帰国まで10年間の体験を日記に綴った自筆の旅行記「入唐求法巡礼行記」(にっとうぐほうじゅんれいこうき)を著している。唐の皇帝・武宗(ぶそう)による仏教弾圧・会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるなど、晩唐の仏教事情に加え、当時の社会風習にも言及されており、唐史研究の貴重な文献とされている。「入唐求法巡礼行記」の研究で世界的に知られる元駐日大使エドウィン・O・ライシャワー氏は、昭和39年(1964年)にハル夫人(松方正義の孫)とともに大慈寺を訪れている。

大慈寺を訪れた時のライシャワー夫妻

「JIKAKU DAISHI Great World Citizen」 ライシャワー氏 記念碑
円仁が開基や中興したと伝えられる寺社は、全国で500以上にのぼると言われ、特に、関東・東北地方には円仁ゆかりの寺社が多く、平泉の中尊寺と毛越寺、山形の立石寺などが有名である。栃木市にある太平山神社や圓通寺などもその一つである。
では、なぜ、関東や東北地方に円仁ゆかりの寺社が多いのか。当時の東国情勢から考えてみよう。
円仁が比叡山に上る前の7世紀後半、桓武天皇(在位:781~806年)は、中央政府に服従しない東北地方の制圧・経営に積極的に乗り出し、延暦8年(789年)から延暦20年(801年)まで、3次にわたる蝦夷(エミシ)遠征軍を東北地方に派遣した。延暦8年の胆沢の合戦においては、蝦夷の族長(指導者)・阿弖利為(アテルイ)が率いる蝦夷軍に遠征軍は惨敗した。しかし、桓武天皇が平安京への遷都を成し遂げた延暦13年(794年)の第2次遠征では、坂上田村麻呂が征夷副使となり遠征軍が勝利する。そして、第3次遠征の延暦20年(801年)には、征夷大将軍に抜擢された坂上田村麻呂に率いられた遠征軍が、胆沢城を造営し、アテルイを全面降伏させるに至る。戦地への最前線となる下野国や上野国は、遠征軍の兵士や物資の補給調達基地の役割を担っていた。幼いころの円仁は、東山道の三鴨駅家を通って東北地方に赴く兵士や戦場に駆り出されていく農民たちを見送ったことだろう。
坂上田村麻呂の功績により東北地方の軍事的な支配を収めた中央政府は、東北地方をはじめとする東国経営の安定を図る必要に迫られた。その手段のひとつとして、最澄や円仁などの天台仏教の新しい風を関東や東北地方に送りこみ、その徳をもって蝦夷を感化させようとしたと推測される。もっとも、天台宗側も中央政府のそうした意図にそって積極的に東国への布教活動を行ったと考えて間違いはなかろう。
円仁は、弘仁8年(817年)、師最澄に随って上野・下野両国を旅し、およそ10年ぶりの故郷の大慈寺にも立ち寄り、大慈寺において円頓菩薩大戒(えんどんぼさつたいかい)を受戒している。「戒を受ける(=受戒)」というのは、誤解をおそれず解りやすく言うと、師が弟子(学僧)に対し僧侶として守るべき戒律を授け、弟子は与えられた戒律を守ることを誓う儀式をすることである。円仁が受けた戒律は、南都仏教の教義である修行者個人を救う戒律(小乗戒)ではなく、世の人々すべてを救うための戒律(大乗戒)であった。このときの最澄は後に伝教大師と称されるように、釈尊の取次をして弟子である円仁に大乗戒を伝える伝教師(伝戒師)の役割を果たしたものと考えられる。
最澄は、国家安泰、仏法興隆、国民安楽を祈念するための拠点にと、全国の六か所に宝塔(相輪塔:五重塔などの屋根の部分を取り払い、心柱と仏塔の屋根の上にある相輪の部分からなっている塔)を建立したが、そのひとつが大慈寺にある。六か所の宝塔を「六所宝塔」といい、比叡山に二か所(近江国比叡山東塔、山城国比叡山西塔)のほかに、上野国浄法寺、下野国大慈寺、豊前国宇佐弥勒寺、筑前国竈門山寺の六寺にある。大慈寺の宝塔は、最澄が弘仁6年(815)に発願し、弘仁8年(817年)に最澄一行が大慈寺を訪れたおりに建立されたもので、一千部八千巻の法華経を書写し、5万余人の僧侶と俗人が集まってそれを宝塔に安置したことが「三千院本伝」(円仁が没した直後の貞観年間に門弟たちが作成した草稿の写本で信頼性が高い)などに記されている。現在の宝塔は享保10(1725)年に再建されたもので、高さ5.45mの青銅製、佐野天明鋳物の相輪塔(県有形文化財)である。

全国「六所宝塔」の一つ大慈寺の宝塔(享保10年再建)
円仁の関東・東北地方巡錫(じゅんしゃく:僧が各地をめぐり歩いて教えを広めること)の旅は、弘仁13年(822年)に最澄が入滅した後にも行っている。渡唐留学前の天長6・7年(829-830年)頃に弟子を率いて行ったという記録(三千院本伝、通行本伝)が残っており、歴史的事実として間違いはない。当時、東北地方の戦乱は一旦収まったものの、弘仁9年(818年)7月には上野国を中心に関東内陸部で、天長7年(830年)1月3日には出羽国で相次いで大地震があった。上野国では、「山が崩れ谷を数里にわたって埋めた。圧死した人々がどれほどいたか、計り知れない。」(類聚国弘仁9年7月条)と記録され、出羽国の被害状況も「城郭、官舎、四天王寺丈六仏像、四王堂舍など、皆ことごとく倒壊した。」(類聚国史天長7年正月28日条)と記録されている。円仁の巡錫の旅は、相次ぐ戦乱や災害で傷ついた東国の民の心を鎮めるものになったことだろう。
ちなみに、栃木市内の太平山神社や圓通寺(創建当初は太平山中にあった)は、天長4年(827年)に慈覚大師によって開山されたと伝えられており、史実としての円仁の関東・東北地方巡錫の時期と概ね重なる時期である。なお、中尊寺・毛越寺の開山は嘉祥3年(850年)、立石寺の開山は貞観2年(860年)とされ、時期的には唐からの帰国後とされているが確証はない。(佐伯有清氏著「円仁」吉川弘文館284頁参照)円仁開基・中興とされる寺社のなかには弟子たちの活躍によるところも大きく、それを含めて天台密教を大成させた慈覚大師円仁という人格に統一されて寺社由緒として伝承されているものと推定される。
小野寺の里
小野寺は、藤原秀郷の後裔を称する小野寺氏の発祥の地で、小野寺氏初代と言われる義寛(よしひろ、ぎかん)の妻は、藤姓足利氏の足利俊綱の娘で、足利(戸矢子)有綱の従妹に当たる。義寛の子が小野寺道綱(みちつな)である。小野寺氏が支配した小野寺保は、山に囲まれた狭隘の地ではあるが、領内にはかつて円仁が修行した大慈寺があり、三毳山(みかもやま)北麓から廻峠(現県道栃木佐野線)を経て志鳥・皆川方面に抜けると下野国府に出られるため、三鴨山付近を通る東山道(推定)が河川増水等で通交不可の場合の迂廻路にもなる交通の要衝にあったと推測される。義寛の子・道綱は、文治5年(1189年)奥州合戦、建久6年(1190年)頼朝の入洛に先陣随兵、富士野鷹狩りや東大寺落慶供養などで名前が登場する鎌倉殿の有力御家人であったが、承久3年(1221年)6月、北条義時軍に従軍し宇治川の合戦で討死した。
小野寺には、「小野寺禅師太郎の墓」と伝えられ墓がある。また、明治のころまで義寛が築いたとされる小野寺城(館)の土塁跡が残されていたとされるが、昭和の東北自動車道の建設等に伴い消滅した。なお、小野寺氏は、文治5年(1189年)の源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦での戦功により、出羽国雄勝郡などの地頭職を得たことにより、南北朝時代に、惣領家も狭隘な小野寺本領を離れ、広大な所領のある雄勝郡に本拠を移した。

東北自動車道の東側道沿いにある「小野寺禅師太郎の墓」


東北自動車道の西側道にある「小野寺城跡」石碑
一遍上人と住林寺
小野寺城跡のほぼ西方に時宗の住林寺がある。正応年間(1288~1293)に一遍上人が東国巡化の途中で住林寺に立ち寄ったとされ、国宝「一遍聖絵 巻第五」(神奈川・清浄光寺所蔵)に「下野小野寺の雨宿り」の様子が描かれている。
下野国小野寺は、一編聖人にとって単なる旅の通過点となる土地ではない。
宝厳寺住職浅山円祥氏は昭和15年発行の注釈の中で、鎌倉幕府御家人である小野寺氏と時宗の関係を次のように説明している。
下野国下都賀郡小野寺村中世小野郷と称せしが古刹大慈寺あるより、小野寺と称す。大慈寺は天台宗、常陸千妙寺末、往昔屈指の名刹なりしも今頽廃せり。今聖絵に図せる仏刹は大慈寺なるべし。現在此の地に時宗住林寺あり、一遍上人の開基にして本願は小野寺左衛門尉泰綱 (系図泰通に作る通業の子) 祖父通綱の為に建立する所なり。-石井悠加氏論文「『一遍聖絵』の和歌―旅の実景として」(四国大学紀要2022年発行)から引用
一遍上人一行が雨宿りをしたのは、小野寺の古刹大慈寺ではなく、寺の近くの板屋の軒先であったことに大きな意味を持つ。
この絵には大伽藍を持つ大慈寺も中央に描かれており、その位置関係からして雨宿りをした板屋は住林寺であることが十分に推察される。住林寺の縁起によれば、住林寺は、もともと南都六宗の一つである三輪宗の寺であったが、承久の乱において討死した小野寺道綱の菩提を弔うために、承久3年(1219年)に小野寺氏によって中興され、正応年間(1288~1293)に一遍上人が東国巡化の途中に来訪した後に時宗の寺となったと伝えられている。正応年間の小野寺氏は、4代目惣領道業の子、5代目行道(泰道)の代になっている。
「一遍上人聖絵」は、一遍上人が、大伽藍を有する天台宗の古刹・大慈寺ではなく、小野寺氏が中興した住林寺との関係を取り結ぶに至る経緯を象徴的に表しているものと推察される。

国宝「一遍聖絵 巻第五 第二段」(神奈川・無量光院清浄光寺所蔵)「下野小野寺の雨宿り」(栃木県立博物館 特別企画展「慈覚大師円仁とその名宝」図録139頁 2007年発行より引用)
この絵の情景に関連して、江戸時代、宝暦13年(1763年)に刊行された「一遍上人語録」に、一遍上人が詠んだとされる歌がある。
下野国小野寺といふ所にて、俄に雨おびただしく降りければ、尼法師みな袈裟などぬぐを、見給ひて 「ふればぬれ ぬるればかはく 袖のうへを 雨とていとふ 人ぞはかなき」 (無量光院清浄光寺 時宗総本山遊行寺ホームページから引用)
時宗総本山遊行寺のホームページには、次のような解釈(意訳)が示されている。
雨が降れば濡れ、そして濡れたものはやがて乾くのが道理であるのに、雨が降ってきたからといって慌てて避けようとすることは愚かなことである。 (無量光院清浄光寺 時宗総本山遊行寺ホームページから引用)
それに対し、日本中世文学・絵巻を専門とする四国大学の石井悠加氏は、2022年の前掲論文のなかで、大変興味深い解釈(意訳)を示しているので紹介する。
袖というものは、雨が降れば濡れ、しかし濡れればまた乾くのが道理だ。それだというのに雨が降るのを人々は厭うが、その命こそが雨粒のようにはかないものなのに
雨にぬれた袈裟を慌てて脱ぐ尼や法師(時衆)を見て、一遍上人は、袖の上に落ちた雨粒=人の命、と比喩することにより、仏法の道理を説いていると解釈できよう。
住林寺には、本尊阿弥陀如来坐像(県指定文化財)があるが、その像の背面墨書には、寿永3年(1184年)に小野寺義寛を願主として、妻の乙姫と嫡男道綱の連名で発願・造像されたとある。この阿弥陀如来坐像は、不動明王と毘沙門天を脇侍とする構成をとっており、その構成から小野寺氏の信仰と天台浄土教(法華経を中心として形成された天台宗と阿弥陀仏を信仰の対象とする浄土信仰が一体となった仏教思想)との結び付きを指摘する見解もあり、興味深い。(米沢玲氏論文「不動明王と毘沙門天を脇侍とする尊像構成について」参照)

岩舟町商工会ホームページから
村檜神社
大慈寺に隣接し、うっそうとした杉木立の間の階段を上ると「村檜神社」(むらひじんじゃ)がある。創建は孝徳天皇の御世の大化2年(646年)と伝えられ、現在の本殿は三間社春日造で屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で天文22年(1533年)に建てられたもの。三間社春日造檜皮葺は、県内では村檜神社にのみ確認される建築様式である。構造・彫刻いずれも室町時代後期の傑作として、国の重要文化財に指定されている。向拝の海老虹梁の側面や、組物の拳鼻、屋根の懸魚の彫刻類はすべて図柄が一つずつ異なっていて、室町時代特有の華麗な絵様も格別で、貴重なものである。(栃木県生活文化スポーツ部文化振興課 とちぎの文化財ホームページ参照)延喜式内社の一つであり、今も厳粛さと静謐さが漂う由緒ある神社である。


本殿正面に4本の柱を用い柱間 (はしらま) が三つある「三間社」形式

正面からではまるで入母屋造に見えるが、実際には切妻造り・妻入り(妻の側に出入り口のある)形式で、正面に大きく庇(向拝)を設け、優美な曲線を描く屋根は「春日造」(春日大社本殿形式)の特色でもあり見事である。