3-3  北条・徳川同盟と広照

 北条・徳川同盟の成立が、皆川氏をはじめ反北条領主連合にどのような影響をもたらすのか。そして、その時、対北条氏戦略として広照はどのように行動したかを探る。

   北条・徳川同盟の成立
水谷勝俊宛て家康書状
本多正信宛て広照書状
決戦回避工作

北条・徳川同盟の成立

 天正10年(1582年)は、6月の本能寺の変を皮切りに、旧武田領の甲斐・信濃を巡って徳川と北条との直接対決・天正壬午の乱が起きたが、その年の10月28日には、北条氏と徳川氏の和睦が成立する。北条・徳川同盟(「第二次相遠同盟」ともいう。)の成立である。
 同盟の内容は概ね次のとおりとされている。

【北条・徳川同盟の内容】
①北条氏は徳川氏の甲斐・信濃支配権を認め、甲斐都留郡・信濃佐久郡を引き渡す。
②徳川氏は北条氏の上野支配権を認め、徳川方となった真田領沼田を引き渡し、真田
 氏には替地を与える。(相互不可侵を確認する「国分(くにわけ)協定」の締結)
③同盟の証として、家康の次女督姫を北条氏直の正室とする(姻戚関係の構築)

 反北条氏連合勢力であった北関東の諸士にとって、非常に大きな意味を持つのは②「徳川氏は北条氏の上野支配権を認める」という国分協定(戦国大名間で行われた国をわける領土協定)の内容である。
 北条・徳川の間では、この同盟により、上野国は北条領と定まったが、それは「手柄次第」つまり自力による領国化を徳川家康が承認するというものであった。
 つまり、家康は上野国にある真田領引き渡しの努力をするが、最終的には北条氏が武力で真田領を攻略し、家康はそれに異議を唱えない、というのが正確な内容であったとされている。(丸島和洋は、著書「戦国大名の外交」P250で)一方、家康は、自らの新たな領国となった甲斐・信濃両国の安定化を第一に進めていくことになるが、これも「手柄次第」を意味していた。

 北関東の反北条氏連合の諸士にとっては、この同盟の衝撃は大きい。なぜなら、前節で紹介した家康書状、すなわち同盟成立のほんの1か月前の天正10年9月13日付け宇都宮国綱宛て家康書状では、北条氏政を氏政を「妄人」(口先がうまくて、心のよこしまな人間)と罵ったあげく、「一切許容あるべからず」(絶対に北条と和睦してはならない)とまで言っている。その家康が手のひらを返して北条氏と同盟を組むなどは、とうてい許容できないことであったに違いない。

 しかも、上野国は北条氏の領国とし「手柄次第」となると、北条氏の上野国侵攻のお墨付きを与える結果となり、さらには下野国にも侵攻してくるリスクが高まり佐竹義重などの下野国の領主は当然反発する。

 家康は、そうした状況をわかっていたとみえ、前節で説明した10月28日付井伊直政直筆徳川家康覚書の第2条目に、「一、さたけ(佐竹)・ゆふき(結城)ゑひきやく御通可被成之」と書いてあるように、反北条氏領主連合の盟主である佐竹氏と有力領主の結城氏に飛脚を派遣することとしてある。おそらく、北条氏と同盟を結んだ家康の言訳が書かれていたであろう。
 史料的制約から、佐竹氏や結城氏宛の書状は確認されていないが、同盟成立と同じ日付け10月28日付けで結城氏の重臣水谷勝俊宛てに送った家康書状が残されている。この書状は、前節で紹介した徳川・北条の和睦条件の第3条目にある北条氏への要請「水谷の通交を認めること」に対応するもので、皆川広照とともに家康の陣営にいた水谷正村が常陸国の領地に帰還するに当たって、家康が水谷氏の現当主勝俊(正村の実弟)宛てに発給したものである。
 この書状で最も注目すべき文言は「惣無事」という言葉である。
 次にこの書状をもとに、家康の意図を検証してみる。

水谷勝俊宛て家康書状

 家康が天正10年10月28日付けで水谷勝俊宛てに送った書状の主な内容を現代語訳で示すと次のとおり。なお、歴史上、重要な文言は一部原文も記載する。

【天正10年10月28日付け水谷勝俊宛て家康書状】
主な内容
①織田信雄兄弟(信長の次男信雄と三男信孝)から(若御子)対陣の終了を申し入れてきた。
②「信長如御在世之時候、各惣無事尤候由、氏直へ申し由衛」(信長在世時の如くおのおの惣無事がもっともであると氏直に申しつけた)
③結城晴朝に御諫言(紛争を停止ようお諫め)してもらいたい。

 この書状は、研究者の間では、「惣無事」の初見資料とされており、当時家康は、北条との停戦は信雄・信孝兄弟の要請に基づき、織田体制の存続を背景に、「惣無事」=関東地域の秩序の形成、を図ろうとしていたものと解釈されている。

 しかし、内容的には、家康は北条氏と結城氏の境目紛争の調停者に過ぎず、「信長御在世の時のようにおのおの惣無事がもっともである」という一種のメッセージを紛争当事者が理解して紛争をやめるようにと言っているにずぎず、政治的軍事的実力に基づく強制力をもった命令や指示の性質はないことは明らかである。当時の家康が置かれた状況から、家康自身も直接紛争の裁定を下すことまで想定していなかったと思われる。
 したがって、これをもって北関東の反北条氏領主連合対北条氏の紛争全般の終結を目指したものとは、家康自身も考えてはいなかっただろう。

 この文書のなかで家康が使った「惣無事」という言葉の意味については、佐々木倫朗氏が論文「東国惣無事の初令について」359頁で次のように説明しているので引用する。

 家康が、自ら和議を結ぶと共に、対立する諸勢力との和議を北条氏に求め、信長在世時の「惣無事」の再現を主張したものと思われる。家康が、自らの行動を信長によって行われた「惣無事」を継承するものと位置づけていたことを読み取ることができる。家康からみれば、自らと共に連携した勢力と北条氏の対立を、そのまま見過ごすことはできない立場にある。そのため、信長在世時の状況への回帰という意味合いも含めて、様々な諸勢力との「惣無事」を北条氏に求めたのである。
 しかし、「惣無事」は実質的に実現困難なものであった。若神子の対陣の和議が、上野国に関して北条氏に譲ることを条件としたものであった以上、家康は、上野国をめぐって北条氏と対立する領主層を主体的に保護する立場に立つことはできず、調整が難しい状況になったことが、「惣無事」実現を困難なものにさせたのである。そのため、天正12年3月段階になっても、家康に対して「惣無事」への対応を求める書状が東国の領主から出されている。

 佐々木氏が言う「東国の領主」とは、まさに皆川広照のことである。 
 ここでは、北条・徳川の和睦(北条・徳川同盟成立)後、北関東における北条氏の下野国侵攻が差し迫った状況において、家康と広照の関係はいかなる役割を演じ、またその状況の推移とともにどのような展開を見せるのであろうか。
 広照が家康の重臣本多正信宛てに送った書状を材料に具体的に検討してみよう。

本多正信宛て広照書状

 皆川広照は、天正12年(1584年)3月12日付けで家康の重臣本多正信宛てに書状を送った。天正12年は、織田政権の後継をめぐって秀吉と家康が直接対決した「小牧長久手の戦い」があった年であり、また、関東においては、北条氏軍対反北条連合軍が現在の栃木市藤岡町西部地域において対陣した「沼尻の合戦」が同時進行した年でもある。

 なお、この書状が発給された時点での北関東の情勢を大まかに説明する。
 合戦の勃発は、天正11年(1583年)11月27日、新田、館林、足利の勢が、北条方の上野国小泉城(城主 富岡六郎四郎)を攻める。これは、由良・長尾両氏の在城一族・家臣が反北条に寝返ったことを意味するとともに、翌年の沼尻の合戦にまで続く北関東における北条対反北条勢力の戦いの初戦と位置づけられている。
 由良・長尾両氏による小泉城への攻撃は、佐野氏も加わって3月まで波状攻撃が続くが小泉城の守りは固かった。北条氏直は、3月18日に出陣の命令を発する。
 これに対し、由良・長尾及び佐野氏の後ろ盾となる佐竹義重と宇都宮国綱は、4月17日に宇都宮を出陣するという経過をたどり、沼尻での対陣になる。
 
 つまり、前年末月から2月にかけて小泉城に対する数度にわたる由良・長尾両氏及び佐野氏の攻撃に、小泉城は耐え抜いている状況にあるさなか、広照は本多正信宛てに書状を発給した。「関東惣無事」という言葉が出てくる大変有名な書状なので、重要な部分の読み下し文と現代語訳を示す。

【天正12年(1584年)3月12日付け本多正信宛て皆川広照書状】(三浦文書)
読み下し:
①改年には未だ申し承らず候、本意に背き候
②関東惣無事 いまだ落居せず、引詰めらる様に頼み存じ候
③殊に、由良・長尾の進退の儀、家康御威光を以て一度に召返さるるの儀、両地へ各拙者油断なく侘び言申し候
④筑州問題の趣、此方においては種々申し来たり候。御心元無く存じ候
⑤御音信のため、白鳥一ツ進之候

現代語訳:
①年が改まって3月になるにもかかわらず、いまだ話を承っておらず、私の思いと違う状況になっている。
②関東の惣無事(関東におけるすべての停戦・和平)は、いまだ実現していない。急ぎお取り計らいをお願いする。
③特に、由良国繁、長尾顕長の処遇については、家康様の御威光によって、一度にふたりを城に帰還させることとし、新田と館林の城にいる一族・家臣に、直接私の方から丁寧に申し訳をいたしたい。
④織田家継承者をめぐる筑前守秀吉の動きについては、こちらにも種々噂が届いており、御心配のことと存じます。
⑤訪問した際には、贈物として白鳥を献上する。
      ※ 数字は筆者が加筆

 この広照書状は、家康による「関東惣無事」の実現、特に、由良国繁・長尾顕長の進退の儀について、家康の取りなしを求めることを主眼とする内容の書状だ。

①の「いまだ申し承らず候」とは何か。おそらく、広照は、②③に記されている内容と同様の「関東惣無事の実現」と「由良・長尾の処遇問題の解決」を既に家康に要請していたものと推測する。その後、家康側からの返答がないことに、広照自身が切羽詰まっている心情を訴えているように読み取れる。
 では、「関東惣無事の実現」と「由良・長尾の進退」とはどのようなものなのか。それを読み解く材料として、本多正信宛て広照書状の約5か月前に発給された秀吉書状を見てみよう。「関東の無事」の実現について、秀吉の意向を家康に伝えた10月25日付け家康宛て羽柴秀吉書状である。
 この書状は、かつて歴史研究者の間では、天正14年と比定されていたが、現在では間違いなく天正11年に比定されるべきものである。
 この秀吉書状では、家康は「関東の無事」を唱え、それを秀吉に既に報じていたこと、その「無事」が遅延しているので、早速「無事」を実現させるよう秀吉が家康に督促した内容になっている。さらに、「無事」を引き延ばす者がいれば、秀吉と家康が「談合」(相談)の上、「御行」(武力行使)に出るとも述べている。

 秀吉が家康の関東での「無事」推進に対して、初めて直接的な指示を出したもので、その背景には、秀吉は、反北条の諸領主から関東での「無事」を要望され、それに対する反応と考えて間違いない。
 この時点で秀吉は、家康を介して北条氏と反北条方の領主たちとの停戦を推し進めようとしていたとされている。(尾下成敏論文「天正十年代初頭の羽柴秀吉の東国政策をめぐって;秀吉・家康の惣無事を中心に」2009年)また、秀吉は、形式的には関東の反北条諸士からの依頼により、家康へ「関東の無事」の実現を督促したものであることは間違いないが、単に「関東の無事」を家康に任せたのではなく、文言中に、「上様御在世之御時」とあるように、秀吉は信長の後継者であり、家康に優越する上位権力者であることを、関東諸領主に対して示すねらいもあったと考えられている。(高橋博論文「天正十年代の統合情勢をめぐる一考察 ー下野皆川氏を中心にー「弘前大学国史研究」第93号1992年30ページ参照)

 では、関東の反北条氏領主連合の諸士からの「無事」要請を受けた秀吉は、改めて家康に指示を出したが、家康自身はどのように動いたであろうか。皆川広照が実際に家康に申し入れた「②関東惣無事 いまだ落居せず、引詰めらる様に頼み存じ候」にあるように、関東における北条氏の侵攻はさらに続いており、「惣無事」は全く実現していない。
 もとより、家康の「御威光」は、先に説明した北条氏との国分協定(北条・徳川同盟)の枠組があるがきり、「関東惣無事」体現のための効力はなかったのである。

決戦回避工作

 次に、広照が、家康に特に求めた「由良・長尾の儀」とは何か。
 「由良・長尾」とは館林城主の由良国繁(ゆら くにしげ)と館林城主の長尾顕長(ながお あきなが)兄弟のことである。顕長は国繁の弟だが、長尾氏の当主当長(まさなが)の娘を娶り、長尾氏の家督を継いでいる。
 ちなみに、由良国繁と皆川広照の関係について説明したい。
 「寛政重修諸家譜」によると、広照の女子(娘)の一人に「結城左衛門督晴朝が養女」とある。また、由良国繁の妻は結城晴朝の養女とされている。「結城御代記」には、晴朝の養女は二人いて、一人は徳川家康の実子で豊臣秀吉の養子・結城秀康の妻となる鶴姫(江戸重通の娘、母方の兄が結城晴朝)、もう一人は皆川広照の娘とされている。つまり、広照にとって、由良国繁は、結城晴朝に養女として出した実娘の婿ということになる。このことから、広照が家康に「由良・長尾の儀」の解決を強く要請していたことの背景が容易に想像できる。

 実は、この書状が出されたとき、由良国繁・長尾顕長兄弟は、北条氏の小田原に幽閉(小田原在府)されていた可能性が高いとされている。
 その顛末は、二次史料ではあるが信頼性の高い「石川忠総留書」の語るところを意訳を含めて現代語訳すると概ね次のとおりである。

 天正11年(1583年)秋に北条氏が毛利北条高広の厩橋城を落とした。由良国繁・長尾顕長兄弟は北厩橋城攻略の祝儀を言上するため、北条氏直の陣所に出仕したところ、氏直から下野佐野城攻めのために、両者の本拠新田金山・館林両城の借用を求められた。ところが、兄弟は家中に相談すると言って色よい返事をしなかった。これを聞いた両者の家臣は帰城して、そのことを両者の母妙印尼に伝えたところ、妙印尼は国繁・顕長の子供をそれぞれの城主に擁して籠城することを選択してしまう。北条氏はそれを謀反と判断し、国繁・顕長兄弟を拘束し、小田原に送り幽閉(小田原在府)してしまった。

 江田郁夫氏は論文「関東惣無事と家康・広照」(2023年)で、3月3日付け由良国繁の一門衆の横瀬掃部助ほか2人宛て家康書状を「新出文書」として紹介している。

 その文書の内容は概ね次のとおり。

【(年不詳)3月3日付け横瀬掃部助ほか2人宛て徳川家康書状】
主な内容:
①由良・長尾兄弟の御身上の儀について、北条氏政に(解決)申し入れをした
②中川市介を派遣した
③皆川広照が「肝煎」となっているので、広照とよく相談するように
      ※ 数字は筆者が加筆

 この家康文書は、関係する史料から天正12年(1584年)に比定されているが、書状が発給された時点では、由良・長尾兄弟は小田原で拘束されていることは間違いなく、家康はおそらく新田城を守る由良の重臣から北条との仲介交渉を要請されており、その返書として、この書状を出したと考えられる。(梁瀬大輔 前出論文参照)
 しかも、③で、皆川広照とよく相談するようにと言っていることを考え合わせると、由良・長尾の留守を預かる在城重臣たちは、広照を使って家康に仲介を求めていたと推察できる。なお、「石川忠総留書」にある国繁・顕長兄弟の実母・妙印尼(みょういんに)は、主のいない新田城・館林城において在城一族・家臣を実質的に統括していたと推定されているが、家康との仲介交渉の実務は、由良一族の横瀬掃部助等の重臣が担っていたと考える。
 これらの書状を時系列で振り返ると、広照が本多正信に書状を発給したのは3月12日だが、それ以前に、由良家の重臣3人から家康宛てに「由良・長尾兄弟御身上の儀」について家康に仲介を求める書状が送られていて、それへの返信が3月3日付け家康書状ということになる。(簗瀬氏前掲論文見解)
 また、この家康書状には「皆川山城守肝煎の事」とあることから、広照は、3月3日以前、おそらく兄弟が小田原在府になったころから、兄弟の解放・帰還の実現について、家康に相談していたことが推測できる。
 しかし、家康から広照には、なんら返答がなかったため、家康直接ではなく、本多正信宛て3月12日の広照書状につながったものだろう。

 最終的に、広照の願いである「由良・長尾の進退儀」のその後の展開はどうなったかというと、3月25日付け家康家臣大久保忠隣(「石川忠総留書」の記録者である石川忠総の実父)からの広照宛て返書や 4月21日付け広照宛て家康の返書が史料として残っているが、いずれの内容も中川市助を派遣したものの、交渉は進展していないとみえ、「重説能わず」と、素っ気ない内容となっている。
 もっとも、4月の時点では、家康はかろうじて長久手の合戦で勝利したものの、小牧城に陣を張って段階である。関東ではすでに北条氏政・氏直父子は出馬して上野国への着陣まじかの状況になっていた。おそらく、家康は、北条軍本体と反北条領主連合軍との全面的な対決は避けられない情勢とみていただろう。
 
 天正12年(1584年)3月12日付け本多正信宛て広照書状に隠された広照の真意を検討してみる。広照が実娘の婿である由良国繁とその実弟長尾両者の帰城を画策していたこと間違いないが、由良・長尾両者の帰城とは、すなわち家康を巻き込んだ「関東惣無事」の実現である。筆者が推測するには、広照の行動は、下野国を含む北条対反北条の全面対決を避けるために、家康を仲介しての北条氏と由良・長尾両氏との和解工作だったと捉えることもできる。広照は、北条・徳川同盟の国分協定、すなわち、北条氏による上野国の支配を認める内容を十分知りうる立場にあった。「由良・長尾の儀」を外交交渉で解決させることにより、北条氏の侵攻を上野国内に止まらせ、家康の御威光によりそれ以上の侵攻を認めない「関東惣無事」を実現させようと広照は考えていたのだろう。
 
 しかし、実際には、由良・長尾在城一族の小泉城攻撃は止まらず、家康・広照による和平工作は失敗した。
 いよいよ北条氏直は、3月18日に出陣の命令を発する。北条氏の主力部隊が北関東に向かい、北条氏対反北条氏領主連合の全面対決の日が差し迫った。

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