3-2 天正壬午の乱における家康と広照
皆川広照が家康に従随し信長に謁見した12日後に本能寺の変が起きる。広照はわずかの従者とともにまだ京阪方面にいた。その後の広照の動きを追いながら、家康と広照との関係がどのようなものだったのかを検証していく。
天正壬午の乱
戦国の情報戦
天正壬午の乱
皆川家臣・関口石見守の安土派遣から約8か月後の天正10年(1582年)6月2日、歴史的大事件が起きた。信長が横死した「本能寺の変」である。
本能寺の変の後、旧武田領であった信濃・甲斐の領有をめぐって徳川氏と北条氏が直接対決する「天正壬午の乱」が起こる。
本能寺の変、それに続く天正壬午の乱に際し、皆川広照はどのように行動していたか。それがわかる史料がある。
「(年不詳)10年10月28日付井伊直政直筆徳川家康覚書」(井伊家家老木俣家伝来文書)である。この文書は、甲州若御子における対陣の後に、徳川と北条が和睦したことを示す大変有名なものなので、原文を掲載する。
「甲州若御子之原二而、北条氏政ト神君御和睦相調、直政公執筆之五ケ条、氏政点頭御書 壱通」
※( )内が井伊直政が書き込んだ北条氏政への回答。
一、御ゐんきよ様御せいく之事、
(家康へ可給候邸、)
一、さたけ、ゆふきゑひきやく御通可被成之事、
(これおおふしうへ御そうしや二)
一、みなかわ方、水之や両人御通候て可給候事、
(御馬入候て、御としあるへき之事)
一 、 しよのおりへさいし御渡可給候事、
一、あしたかたへのひきやく之事、
(一、小田原へ御ひきやく之事、)
以上、
(一、七郎右之儀、あわれ小田原まてさしこされ候ハ、捜州一代御おん二可被諭候由、被仰候砺、)
十月廿八日
この文書は、その内容から天正10年(1582年)に比定されている。徳川と北条との和睦交渉における協議事項を井伊直政が書き留めたもので、徳川方が北条方に示した5条件が示されている。当時22歳の直政が停戦の使者となり交渉をまとめた証としても有名である。
その3項目に「みなかわ方・水之や両人御通候て可給候事」とある。これを現代語訳すると、「皆川広照・水谷正村両人が(北条領内を)通行することを許可する事」と書かれたものである。
なぜ、甲州若御子での徳川・北条の対陣に、皆川広照と水谷正村の両人がいたのか、その経緯はおおむね次のように考えられている。
広照は、5月20日に家康に従随し安土城で信長に謁見したが、そのあと、おそらく上方見物を兼ねて安土からそう遠くない京坂方面に滞在していたものと推測する。
家康は堺見物をしている6月2日に信長横死の報を聞いたとされ、明智光秀からの追っ手から逃れるために、有名な「君神伊賀越え」を決行し、命からがら三河の岡崎城に帰城を果たしたのが6月4日とされている。
では、そのころ広照はどうしていたか。おそらく、急遽、上方見物を取りやめ浜松城に向かい家康と合流し、その後、信濃・甲斐に侵攻してきた北条氏直を迎え討つべく、わずかなお供を率いて家康に従い、8月10日に甲斐新府城に着陣したと推測される。
なお、水谷正村は、広照と同様に信長謁見のために安土に向かったが、出発が遅れたためか途中近江で信長の死の報を知ったとされており、正村も近江から急遽浜松に向かい、家康と合流したものと思われる。(寛政重修)
戦国の情報戦
では、広照が率いる兵は信長謁見に連れてきた御付きの者だけであったわけだから、大した戦力にはならないはずだが、皆川・水谷の処遇が和議の際にわざわざ条件の一項目にあげるほど重要視された理由は何か。
戦国史研究者の平山優氏は、その著書(「天正壬午の乱」320ページ)で次のように示唆に富む指摘をしている。
彼ら(広照・正村)が引率した軍兵はごく少数であったろう。(中略)そのためであろうか、皆川と水谷はもっぱら軍事ではなく、徳川氏の外交交渉を積極的に支援した。その主任務は、「東方の衆」(反北条勢力の大名・領主)と徳川氏との提携を堅固なものとし、北条氏の背後を衝くよう働きかけすることだった。
そのうえで、平山氏は、「家康が最も懸念したのは、(中略)北条氏が、「東方の衆」と和睦を実現することであった。」と述べている。筆者も同意見である。
平山氏の見解を裏付ける史料として、徳川・北条の和睦が成立する一か月半前の9月13日付け反北条勢力の宇都宮国綱宛てに発出された家康書状がある。そこにも皆川山城守(皆川広照)の名がある。これも重要な史料であるが、ここでは一部現代語に要約して主な内容を紹介したい。
【天正10年9月13日付け宇都宮国綱宛て家康書状】
主な内容:
① 羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家らが援軍を派遣することで合意した。援軍到着を待って総攻撃に転じる考えである。
② 貴方(宇都宮氏)と当方は入魂の仲である。
③ 北条氏政は「侫人」であり、一切御許容あるべからず。
④ 委曲は皆川山城守方より申し入れらるべく候。
※番号は筆者が付け加えたもの
家康は、宇都宮国綱に対し、「宇都宮氏と徳川氏は入魂の仲である」としたうえで、北条氏の計略に乗らないよう注意を促している。しかも、氏政を「侫人」(口先がうまくて、心のよこしまな人間)と罵ったあげく、「一切許容あるべからず」(絶対に北条と和睦してはならない)とまで言っている。
そして最後に「委曲は皆川山城守方より申し入れらるべく候」(詳しくは皆川広照から申し入れがある)とあり、家康の意向は、同陣していた皆川広照の副状を添えて、宇都宮国綱に届けられたと推測する。
この頃の皆川氏は、北関東の反北条勢力の一員であったため、家康と同意見であることを副状に記したであろう。つまり、家康にとって皆川氏は、「東方の衆」(関東における反北条氏連合に与する諸将たち)を説得し、これを味方にひきつけるために極めて重要な外交・調略活動を担っていた、ということになる。
やや話題は逸れるが、この時点で未だ戦闘状態にある敵方北条氏の勢力圏を、使者はどのようにして通過し、宇都宮にまで書状を届けられたのであろうか、大変興味深い。
思うに、この書状が発給された天正10年9月中旬は、真田昌幸が徳川方に転じた時期と付合するとされている。(平山優著書「天正壬午の乱」283ページ参照)つまり、真田昌幸が徳川方に転じることが確実な情勢になったことが北関東への通交を可能ならしめたものと推測する。使者は、真田領の沼田を経由し、北条領を避けておそらく赤城山東側を通る道(通称「根利通」)を通って、佐野、皆川、宇都宮へと向かったことだろう。
では、こうした皆川広照を巻き込んだ外交・調略活動は、徳川対北条の戦況にどう作用したであろうか。
ここでは、北条方の文書と北関東の反北条方の文書の2通を紹介する。
ひとつは、和議の約半月前の10月11日に、北条氏政が北条氏邦(氏政の三男、北条氏の上野進出に中心的役割を果たしている)宛てに送った書状だ。
【天正10年10月11日付け北条氏邦宛て北条氏政書状】
主な内容:
①譜代相伝の地であっても、当家存亡には替えがたい。
②佐竹氏が館林に向けて出陣した。
この氏政書状は、佐竹氏が北条方の館林城に向けて出陣したことを上野方面軍の三男氏邦に伝えたものだが、特に①は、北条家の存亡をも意識した氏政の悲痛な叫び声が感じられ、北条方としての戦況認識を反映したものと思われる。
では、北関東の反北条氏勢力の発出した書状にはどう書かれているか。天正10年10月21日付け宇都宮国綱が反北条方の陸奥国の武将蘆名盛隆宛に発給した書状を見てみよう。
【天正10年10月21日付け蘆名盛隆宛て宇都宮国綱書状】
主な内容:
①徳川が(甲斐で)対陣中につき、後詰めとして佐竹義重と相談し、上野方面に出陣した。
②(北条方である)由良(新田)・長尾(館林)を攻め、領内を焼き払ったあと、古河・栗橋へ軍を進めた
③家康より使者をもって伝えてきたわけは、このたび北条家を討ち果たそうとしていることだ。
この国綱の文書は、宇都宮氏と佐竹氏の連合軍が、徳川氏の後詰めとして、北条氏の背後を衝くべく上野国に出陣したことを伝えるものである。②では、北条領内を焼き払ったことを伝えているが、戦況を左右するほど北条方にダメージを与えてはいない。
しかし、上野の国衆のほとんどが氏直に従軍して甲斐に在陣しており、留守居の兵力が極端に不足していた、と平山氏が指摘するように、北条軍の戦意低下につながる軍事行動にはなったものと考える。③では、家康が使者で伝えてきたことは、北条家を討ち果たすことだ、と強調している。
史料の制約により確証できるものはないが、こうした家康と北関東反北条勢力との交信は、家康の陣にいた皆川・水谷の手の者によって頻繁に行っていた可能性が高いと考える。
そうした状況下、先に示した10月28日の井伊直政要請文の発給を経て、徳川・北条の和議(徳川・北条同盟)の成立につながるのである。
こうしてみると、「天正壬午の乱」は信濃・甲斐・上野にまたがる旧武田領を徳川と北条が武力による争奪戦ではあった。戦況は決して徳川に有利ではなかったとされている。が、それを最終的に和睦に導かせたのは、真田昌幸を家康方に寝返らせた調略活動とともに、家康の陣にいた皆川・水谷を使った調略活動が功を奏し、佐竹・宇都宮を主軸とした北関東反北条勢力が上野にまで侵攻したことの心理的影響が大きかったのではないか、と筆者は考えている。
つまり、家康と広照の強固な関係を築いた背景には、家康の若御子対陣に際し、広照が水谷正村とともに北関東諸将のなかで唯一参陣した武将というだけではなく、「天正壬午の乱」を終わらせる徳川・北条の和睦(徳川・北条同盟成立)に向けて、広照が果たした外交的役割を家康が大いに評価していたということだろう。
それでは、こうした家康と広照の関係は、その後、北条氏の下野国侵攻においていかなる役割を演じ、またその状況の推移とともにどのような展開を見せるのであろうか。具体的に検討してみよう。
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