2-3 皆川俊宗の時代
陸奥国会津南山の地から父皆川秀宗ともに皆川荘に入部し、はじめて皆川姓を名乗ったとされるのが氏秀であり、氏秀の曽孫に当たるのが俊宗(広照の父)である。この時代の皆川氏は、下野国の有力一族・宇都宮氏と古河公方を傀儡化した小田原北条氏との勢力の境目にあって戦いと融和の歴史であった。皆川広照の父・俊宗が、どのようにして下野国南部で確固たる地位と実力を確立していくのかを検証する。
宇都宮氏の寄衆
宇都宮城占拠事件
深沢布袋岡城の合戦
粟志川城の合戦
宇都宮氏の寄衆
皆川俊宗が歴史の表舞台に登場してくるのは、永禄3年(1560年)からである。この年、越後の上杉謙信(この時期、謙信は景虎と名乗っていたが、本書では謙信と統一して表記する)が初めて三国峠を越えて関東へ進出を果たした。謙信が自身の関東出陣の中で最も輝かしい戦果をあげた時期(永禄3年~永禄4年)に、謙信に従った関東の諸将の名等を記した「関東幕注文」が今に残っており、その諸将のなかに俊宗がいた。「注文」とは、一般に支配する所領や家臣などを一覧にして記したものを言う。
この「関東幕注文」は、永禄11年(1568年)の越相同盟の成立前後の時期に、越後上杉氏が同盟交渉を有利に進めるために、謙信が後北条氏に対する領土割譲要求の論理とすべくまとめ上げたものとも言われているが、永禄3年から永禄4年(1560~1561年)の関東の情勢を反映したものとして大変貴重で興味深い史料である。(荒川善夫氏著「戦国期東国の権力構造」281ページ及び註参照)
それによると、下野国では小山衆、宇都宮衆などのほか、足利長尾氏を中心とする足利衆、佐野氏を中心とする桐生衆等がいる。このうち宇都宮衆は、当主広綱以下、親類(一族)の笠間孫三郎、塩谷左衛門大夫、上三川次郎、多功虎寿丸、西方又三郎などから構成されている。そのほか「宇都宮へ寄衆」として皆川山城守、一族の皆川駿河守、同又五郎、同刑部太輔、そして家臣膝付式部省輔の名が見える。皆川山城守とは皆川氏当主俊宗のことである。
皆川氏を宇都宮衆の別格として「宇都宮へ寄衆」と記しているのは、おそらく、皆川氏は、かつて関東八屋形と称され、宇都宮氏と同格だった長沼氏の流れをくむ一族であることから、宇都宮家中に包摂されていたわけではなく、家臣とは別格の外様的重臣の位置にあったからと考えられている。
では、ここで、前節で述べた通り、皆川荘入部以来、古河公方足利氏とは主従関係にあったはずの皆川氏が、いつごろから、なぜ宇都宮氏の寄衆となっていたのかを説明しなければなるまい。
まず、皆川氏が宇都宮氏の寄衆となった時期である。天文7年(1538年)12月、宇都宮氏当主俊綱や同氏宿老中の列席のもと、宇都宮大明神(現在の二荒山神社)の式年遷宮(社殿造営)の還御式(かんぎょしき)に際し、神宮寺慈心院で能が奉納された。これに使う「小袖・刀等は壬生・皆川方々より借用」しての上演であったことが「慈心院造営日記」に記されている。(慈心院造営日記 宇都宮二荒山神社所蔵「真岡市史代2巻古代中世資料編」所収、荒川善夫氏著書「戦国期北関東の地域権力」 岩田書院1997年)
宇都宮大明神は、宇都宮一族の結束の場であり、一族・郎党は神社の神仏事に奉仕、参加する義務があった。なぜなら、宇都宮氏の当主は古代以来宇都宮大明神の「神主」を世襲し、一族の精神的支柱である宇都宮大明神を維持・管理することは惣領家の一族支配、領内支配と不可分の関係にあったからで、惣領の命に背くことは大明神の「神慮」に背くことであり、惣領の意志は神の意志でもあった(影山博氏著「栃木県神社の歴史と実像」随想舎2019年発行124頁)とされている。したがって、宇都宮大明神の最も重要な儀式である式年遷宮に臨席し能に使う小道具を貸出している壬生氏・皆川氏は、この時期、宇都宮氏に臣従していたことが推測される。
また、この時期の皆川氏の当主は皆川成勝(しげかつ)であった。そして、成勝の嫡子・俊宗は、天正元年(1573年)9月に49歳で亡くなったとされていることから逆算すると、天正7年頃に元服していることになる。つまり、俊宗の「俊」は、宇都宮大明神の式年遷宮のあった天正7年頃に烏帽子親となった宇都宮俊綱(後に尚綱と改名)から一字を得たものであることは間違いなく、このことから、皆川氏は、遅くとも天文7年(1538年)には宇都宮氏に臣従していたことになる。
では、古河公方と皆川氏との主従関係はどうなったのだろうか。
そもそも皆川氏は古河公方の直臣ではなく外様的な立場にあった国人領主であった。したがって、古河公方から御料所またはそれに準ずる領地・皆川荘の支配・管理権を認められたとしても、それは直臣としてではなく、外様の国人への恩賞に類する宛行いだったということだろう。
仮に、公方の直臣であれば、その領域支配に守護が介入してくることはないと考えるが、皆川氏クラスの国人領主の場合は、ある意味、本家・古河公方から皆川荘の支配・管理権を与えられ、荘園本家に奉公するとともに、一方で、下野国内で一定の軍事力を有する守護もしくは守護に準ずるクラスの大名・豪族の配下になることが政治的にも軍事的にも存立の必要条件だったと考えられる。皆川氏は、当時古河公方と親密だった下野国宇都宮氏の支配下に組み込まれることを選んだということになろう。
しかし、皆川氏と宇都宮氏との関係は一貫していたわけではない。永禄年間(1558年~1570年)後半には、古河公方の擁立をめぐる小田原の北条氏と越後の上杉氏の抗争の渦中にあって、その関係は揺れ動いていた。
宇都宮城占拠事件
宇都宮大明神での能奉納、宇都宮俊綱による俊宗元服の儀から30年以上過ぎた元亀3年(1572年)正月、皆川俊宗は、宇都宮家中における親上杉派のトップに立つ岡本宗慶(そうけい)を宇都宮城内で謀殺し、俊綱の子である宇都宮広綱を幽閉し宇都宮城を占拠するという大事件を引き起こす。これが、いわゆる皆川俊宗による宇都宮城占拠事件であり、「皆川俊宗の乱」とも言われている。
事件の起きた元亀3年は、すでに武田・北条の甲相同盟が成立(元亀2年:1571年)し、北条氏による北関東への大規模な軍事攻勢が目前に迫りつつあった時期であった。宇都宮氏の重臣として確固たる位置を占めていた俊宗が、なぜこのような無謀ともいえる行動に出たのか。
江田郁夫氏は著書「戦国大名宇都宮氏と家中」(岩田書院 2014年)151頁で次のような興味ある説を唱えている。
俊宗の宇都宮城占拠は、蘆名、白河、那須同盟との連携にもとづく軍事行動だった。俊宗の意図としては、宇都宮氏を永禄年間以来の佐竹氏との同盟関係から決別させ、みずからの陣営に引き入れることをめざしていたと考えられる。
江田氏の指摘する俊宗の描く「みずからの陣営」とは、蘆名・白河・那須氏の同盟に宇都宮氏を組み込み、佐竹氏を排除した形で「上杉、北条、武田氏に対抗できる政治勢力」を結集しようと企てていたというのである。結果的には、佐竹義重を中心とするグループの巻き返しによって、俊宗の企ては失敗することになる。佐竹グループは、その後、逆に皆川氏を排除した上で、佐竹氏・宇都宮氏らを中心に小山・結城・那須氏、南奥の田村氏を含めた政治勢力を結集し、北条氏の侵攻に対抗することを目指した。
一方、佐竹氏との主導権争いに敗れた俊宗は宇都宮家中において孤立を深め、結果として皆川氏は宇都宮氏と決別し、北条氏との関係を強化することで生き残りを図ろうとする路線を明確にしていったのである。
深沢布袋岡城の合戦
宇都宮城占拠事件から1年後に宇都宮・佐竹連合軍と皆川氏との間で大規模な合戦が起きる。まず、次の二通の書状を見てみよう。
史料①【元亀4年(1573年)2月14日付け佐竹氏家臣赤坂左馬助宛て佐竹義重書状】(秋田藩家蔵文書)
原文:皆川山城守、宮中へ数度之慮外、於義重も無其曲候條
皆川之地近邊深澤之城為始十一ヶ城責落
現代語訳:皆川山城守(俊宗)の数度の「慮外」(無礼な行為)に対し、佐竹義重も不 快に思っているので、皆川の地近辺の深沢城をはじめとして、皆川氏の城11か城を攻め落とした。
史料②【元亀4年(1573年)2月25日付け武田氏の家臣土屋右衛門尉宛て宇都宮広綱書状】
原文:去秋如申届、皆川山城守對廣綱度々分外之扱増進之間、義重其外味方中相談、当春成調儀、及十ヶ城山城拘之地属手裏候、氏政當口出張、彼等之儀、畢竟皆 川所行無是非候、彌無念候
現代語訳: 昨年秋に申し届たとおり、皆川山城守(俊宗)は、宇都宮広綱に対する度々の身分をわきまえない行為が増えており、佐竹義重達「味方中」に相談をして、この春皆川氏を攻め、皆川氏の城10か城を手中にしたが、北条氏政が皆川氏の援軍として出陣してきたので、結局のところ皆川の悪行を正すことできなくなり残念だ。
これら二つの史料は、元亀3年(1572年)12月26日から翌年1月13日にかけて、宇都宮広綱が佐竹義重の加勢を得て、深沢城(布袋が岡城 現栃木市都賀町深沢)をはじめ皆川氏の支城のほとんどを攻略し落城させ、本城の皆川城を残すのみとなった大規模な合戦の様子を伝えるものである。宇都宮・佐竹連合軍による皆川氏への報復攻撃がなされたと見てよい。
さらに、史料②によると、北条氏政が皆川氏の援軍として出陣したことが書かれており、皆川氏は宇都宮氏と決別して、完全に北条氏との連携の道を選んでいたことがわかる。なお、北条氏政軍は、2月19日に多功原(現上三川町多功一帯)で宇都宮・佐竹氏を主軸とする反北条氏連合軍と戦闘になるが、敗退する。
ここで、江戸時代に書かれた軍記物「皆川正中録」に、宇都宮氏が佐竹氏の加勢を受けて深沢布袋岡城攻めを行ったとの記述があるので、次に史実と対比して考察する。
皆川正中録では、深沢布袋岡城攻めは天正16年(1588年)3月に起きたことになっている。この合戦により、深沢布袋岡城は落城するとともに、戦死者の血が滝川のように流れ、脇谷川原に流れ入った血潮は翌年になっても水に解けて滲み出るので、誰言うとなく脇谷より下の川を「赤血川(あかぢがわ)」と呼び、やがて「赤津川(あかづがわ)」と呼び習わすようになった、と赤津川の由来が記載さている。この合戦の戦闘がいかに熾烈であったかを物語る内容となっており、この物語を史実として理解している地元の人々も多い。
都賀町教育委員会が、深沢布袋岡城跡を現地調査したところ、本丸跡東の堀切を施した廓(兵糧倉庫の跡という)から焼き米が出土する(平成元年3月30日発行都賀町史244頁)など、落城の悲劇を物語る遺物も出土しており、深沢布袋岡城落城が単なる皆川正中録の創作ではない材料とされている。
しかし残念ながら、史料的制約はあるものの、天正16年にこの地で戦いがあったことを示す一次史料は現在のところ見つかってはいない。思うに、皆川正中録記載の深沢布袋岡城の合戦は、史実としての元亀3年12月から元亀4年1月にかけて起きた宇都宮・佐竹連合軍との戦いを、作者が天正16年の出来事として再編成し、物語としての創作を加味して描いたものではないかと推察する。
粟志川城の合戦
元亀4年(1573年)は7月28日に天正に改元される。皆川俊宗はこの年の9月初旬に北条軍の一員として壬生綱雄(つなたけ)とともに粟志川(「淡志川」と表記されている史料も多いが、ここでは「粟志川」と統一して表記する)一帯に陣を張り、宇都宮氏・佐竹氏を中心とした反北条氏連合の小山氏が守る粟志川城を攻め立てた。
粟志川城の合戦とはどのような合戦だったのか。あまり知られていない合戦なので、これに関連する2通の史料を示す。
史料①【天正元年(1573年)9月3日付け佐乙女兵庫助宛て小山秀綱感状(彦根城博物館所 蔵文書】(鹿沼市 史資料編古代・中世348号)
【主な内容】
①北条氏政による粟志川の城攻めのとき、即時に駆けつけた。
②その際、佐乙女兵庫助の子供藤三郎が、16歳でありながら比類ない功名をあげたので、所領安堵の上、褒美を授ける。
史料②【天正元年(1573年)比定 9月7日付け佐竹義重宛て壬生周長書状】(白河証古文書 鹿沼市史資料編古代・中世349号)
【主な内容】
①粟志川では昼夜なく鉄砲の音、ときの声が聞えてくる。
②一昨日、粟志川で壬生・皆川の兵が数多く負傷した模様。
③西方城・南摩城の守りは堅固なので御安心ください。
④西方城に日々200騎・300騎の援軍を差し向けていただければ、粟志川の張陣は必ず勝利する。
⑤一日も早い御出馬をお願いする。
この時代の文書は、発給年が記載されていないのが普通であるが、史料①は、発給年が示されている大変貴重な文書であり、これにより北条氏による粟志川城攻めは天正元年(1573年)9月の出来事と確定できる。
資料②は、鉄砲の使用により、北条方に参陣している壬生・皆川の兵が数多く死傷する激戦の模様を伝えている。天正3年5月の長篠の合戦の2年前である。また、佐竹・宇都宮勢力の壬生周長(かねたけ)が西方城・南摩城を拠点にして北条勢をくい止めようとして、西方城への援軍派遣を佐竹氏に求めるなど興味深い。
ちなみに、栃木市教育委員会が粟志川城の合戦の状況を現代の地図に落としているので、参考までに掲載する。赤色の矢印が反北条の佐竹・宇都宮氏勢力の動きで、青色の矢印が北条勢力の皆川・壬生両氏の動きを示す。壬生城主は、鹿沼城の壬生周長と対立する壬生綱雄(周長の甥)であった。

粟志川城の合戦 概況図(栃木市教育委員会作成)
「寛政重修諸家譜」の皆川俊宗の項には、俊宗は、「天正元年9月21日卒す(しゅっす)」と記されており、これが正しいとすれば、粟志川城の合戦のあった時期と一致しており、この合戦のさなか討ち死にをとげた可能性が強い。享年49歳であった。
なお、「栃木市史通史編」(1988年12月発行 609頁)では、俊宗の討死は、天正元年結城氏朝とともに関宿城主梁田政豊を救援して北条氏政と戦い下総国田井にて討死した、と「皆川正中録」の内容をそのまま採用して記述している。しかし、この時期の皆川氏は北条方であったことは間違いなく、信憑性に問題がある。
では、皆川氏の当主である俊宗が討死するほど激烈な戦闘が行われた「粟志川の城」とは一体どこにあったのか。
近年の研究によると、粟志川城は、小山氏が現在の栃木市大宮一帯を支配していたときの出城「大宮城」であると推定されている。(かぬまー歴史と文化ー10号佐々木茂氏論文「淡志川城の位置」平成19年3月発行参照)昭和20年頃までは、土塁を以て囲み、一部堀も存在し、北条の土塁上に天文6年(1537年)と刻んだ五輪塔があったとされている。(栃木市史資料編758頁)現在も大宮神社の南側にわずかではあるが土塁や堀跡など大宮城の遺構が存在する。

粟志川城の遺構とされている北城土塁上の五輪塔
(栃木市史編さん委員会「目で見る栃木市史」60頁 昭和53年)
私見であるが、「粟志川」は、「合わし川」または「合わせ川」が訛ったものだと推測している。なぜなら、現在の大宮神社周辺は、現在でも思川の伏流水がいくつも湧き出て流れが合わさる地域であって、大宮神社は周辺地域に比べ標高がやや高いところに位置している。つまり、いくつもの川が合わさる所のやや高い地域に粟志川城が築かれていたのではないかと考えている。
なお、この伏流水は赤渕川となって、現在の栃木市大平町北武井付近で巴波川と合流する。現在の赤渕川は、水量の減少と圃場整備事業により一部赤渕沼湿地帯としてその痕跡をとどめているものの、目立たない存在になっている。しかし、整備前の航空写真に残る河川跡などから、過去には巴波川に劣らぬ水量を保持していたことが推測できる。
あくまで私見であるが、先に述べた栃木市の中心部から南部に存在したとされる荘園「中泉荘」は、南部地域は巴波川右岸を東端として寒川御厨と接していたことは間違いないが、栃木市中心部についてはその境界線は不明である。しかし、この粟志川城一帯が、おそらくこの赤渕川の右岸を東端として、「小山朝政譲状」(本書「第1章1-2経済基盤としての小山荘と中泉荘栃木」参照)に記載のある小山氏支配領域「国府郡内」と区別されていた地域、つまり「中泉荘加納」の地の一部であった可能性もある。いづれにしても、この地は、小山氏と皆川氏の領地とが錯綜または接触している土地であったに違いない。
なぜそのことをここで取り上げるかというと、この後第4章で述べる皆川広照による栃木城を築城しようとする意図と密接に関わってくるからである。
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- 2-2 古河公方と皆川氏
- 3-2 天正壬午の乱における家康と広照
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- 補ー2 県庁移転運動とその中心人物
- 第1章 藤原秀郷から小山政光まで
- 第2章 長沼氏から皆川氏へ
- 第3章 徳川家康と皆川広照
- 第4章 北条氏との最終決戦と小田原合戦
- 第5章 栃木城築城と栃木町の成立ち
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