2-2 古河公方と皆川氏

 永享の乱、結城合戦、享徳の乱と関東の戦乱の続く状況の中、長沼氏惣領家であった淡路守系長沼氏は没落するが、皆川氏につらなる次郎系長沼氏は、下野国皆川荘に本拠を移し、皆川氏を名乗ることになる。そこで「関東の将軍」と言われる古河公方や関東管領上杉氏が、皆川氏(第二次)の成立にどのように関わっていくのかを検証する。


次郎系長沼氏の皆川荘への入部
  古河公方と皆川氏
  皆川荘の由来

次郎系長沼氏の皆川荘への入部

 永享の乱、結城合戦、享徳の乱と関東の戦乱の続く状況の中、長沼惣領家であった淡路守系長沼氏は没落するが、次郎系長沼氏は、どのようにして生き抜いたのであろうか。
 それを検証するにあたって、前節で取り上げた、「皆川文書」に残された永享11年(1439年)に比定されている2月11日付け篠川公方足利満直書状に話を戻すと、栃木県史(昭和59年3月発行)では、この文書に記されている次郎の入部先を「皆川荘」としており、入部の時期を、永享12年(1440年)3月結城合戦の始まる直前と推定している。(栃木県史 通史編3中世551頁)
 しかし、この文書発出から10か月後の永享11年(1439年)12月21日付け長沼次郎及び白河弾正少弼宛て上杉憲実の書状が「皆川文書」に残っており、当時の長沼次郎の置かれた立場を物語っている。

【永享11年12月21日付け長沼次郎宛て上杉憲実書状】
読下し文:その後数年音問をへだつるのところ、委細示し給わり候。本望の至りに候。向後においては、連々承り申すべく候。  恐々謹言 

【(年未詳)12月21日付け白河修理大夫入道宛て上杉憲実書状】
読下し文:長沼次郎方身上の事につきて委細示し給わり候。為悦候。如何様連々等閑に存ずべからず候。心事後信之時を期し候。 恐々謹言
(栃木市史資料編古代・中世592頁 208号及び209号)

 これらの書状は、上杉憲実が長沼次郎の処遇に配慮する旨のことが書かれているが、「入部」について進展していることを伺わせる内容の記述はない。つまり「入部」は進んでいないのだ。
 さらに、次郎系長沼氏が仕えていた篠川公方足利満直は、先に述べたように、結城合戦の政治的混乱のなかで既に6月に自害に追い込まれてしまっている。
 こうした経緯を考えるなら、次郎系長沼氏が実際に皆川荘に入部することは困難であり、この時期に、篠川公方の命により皆川荘に入部を果たしたとは考えにくい。

 次郎系長沼氏の入部先については、別の見解もある。
 江田郁夫氏は、篠川公方足利満氏により入部を認められた場所は「この時点では長沼荘以外には考えられない」とし、栃木県史とは別の考えを展開している。(「室町幕府東国支配の研究」108頁)
 長沼荘は既に惣領家である淡路守系長沼氏が支配・維持しているところであるから、結局、淡路守系長沼氏の抵抗と結城合戦などの関東の大乱によって、次郎系長沼氏の長沼荘への入部は実現できなかったとしている。

 筆者としては、栃木県史の記述のとおり次郎系長沼氏の入部先を「皆川荘」とすることは、後の次郎系長沼氏=皆川氏の歴史展開を考えると非常にわかりやすい見解ではあると思うが、しかし、先に示した「(年不詳)2月11日付け安房守宛て篠川公方足利満直書状」の文章構成を再確認すると、文章の前段が、長沼淡路守(彦法師のちの生空)は許せないとし、後段では、次郎への恩賞として許せない長沼淡路守が領有する長沼荘への強入部(強引に入部し占拠すること)を認める内容のもので、入部先は長沼荘を意図している、と考えたほうが自然であろう。

 では、次郎系長沼氏は、どのような経過をたどり、長沼荘ではなく最終的に皆川荘への入部を果たしたのだろうか。江田郁夫氏は次郎系長沼氏の皆川荘入部の経緯を次のように説明している。(「下野長沼氏」143頁)

 南北朝時代以降、紆余曲折はあったものの、最終的には15世紀後半に皆川荘が古河公方足利氏の所領となり、その関係で奥州白河氏への皆川荘の宛行いが実現したとみられる。ただし、現実的には白河氏としても下野南部という遠隔地に所在する皆川荘支配を維持できるはずはなく、その間隙をつくようにして長沼秀宗・氏秀父子が皆川荘を支配下に収めたのである。

 江田氏の言う「奥州白河氏への皆川荘の宛行い」とは、古河公方足利成氏が、奥州白河氏に対し皆川荘を安堵する書状(年不詳4月19日付け白川修理大夫入道宛て足利成氏軍勢催促状(白川文書 足利成氏軍勢催促状 栃木市史資料編古代・中世598頁218号)のことである。

【(年不詳)4月19日付け白川修理大夫入道宛て足利成氏軍勢催促状】
読下し文:既に御発向の事候。定めて合戦火急たるべく候。不日出陣在り、忠節を励まれ候へば、御大慶候。よって皆河庄事、成敗相違有るべからず候。謹言
(栃木市史資料編古代・中世598頁218号)

 この書状の発給年は不明であるが、宛名が「入道」とあることから、当時の白河氏当主の直朝が養子の政朝に家督を譲り出家したのが文正元年(1466年)とされているので、発給年は早くても出家後の文正元年(1466年)以降と考えられる。

 奥州白河氏が足利成氏から宛行われることになった皆川荘は、間違いなく遠隔地の所領だった。鎌倉時代とは異なり、内乱の激化した南北朝・室町時代においては、もはや一片の証判をもってしては遠隔地所領は維持できなくなり、それらは守護や国人領主によって次々と占領の対象となっていった。(永原慶二著「東国における惣領制の解体過程」参照)
 皆川荘は、古河公方の一片の証判で奥州白河氏に宛行われた遠隔地所領だったとしても、奥州白河氏に代わって皆川氏が入部するには、何らかの正当性が必要なはずである。その点については、江田氏は、古河公方足利氏に皆川荘の支配の承認もしくは支持を得ていた可能性が高いとしている。(江田郁夫氏著「下野長沼氏」144頁)

 ここで、この当時の関東情勢を理解するために永享の乱から古河公方の成立までの概略を説明したい。
  永享10年(1438年)に関東管領上杉氏=室町幕府と鎌倉公方足利持氏が対立し永享の乱が起こり、永享11年(1439年)2月10日戦い敗れた持氏が自害し鎌倉府は崩壊する。持氏を自害に追い込んだ上杉憲実は同年中に出家することになる。その後、幕府は持氏の遺児成氏が鎌倉公方に就任することを承認し、文安2年(1445年)鎌倉府は再建された。しかしその後、享徳3年(1454年)12月成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺事件に端を発し、鎌倉公方と関東管領上杉氏=室町幕府とが再び戦闘状態になる。享徳の乱の始まりである。成氏は、関東管領上杉氏に敵対し武蔵・上野・下野を転戦し、その間、上杉方である幕府軍に鎌倉を占拠されてしまう。成氏は、やむを得ず、享徳4年(1455年)に帰陣した下総古河に本拠地を移し、後に古河公方(1455年~1497年)と呼ばれるようになる。
 こうして古河公方は、初代足利成氏から、政氏、高基、晴氏、義氏の五代にわたって下総の古河城を本拠とし、政治的には鎌倉公方を継承する「関東の将軍」として、戦国の世に君臨する存在だった。

 思うに、奥州白河氏宛て足利成氏書状が発給された当時の古河公方足利成氏は、関東管領上杉氏=室町幕府派と全面対決の状況にあり、成氏は少しでも軍事動員が可能な勢力を必要としていた。そうした状況のもと、足利成氏が発給したこの書状は、奥州白河氏に出陣の催促をしたうえで、「よって皆河庄事、成敗相違有るべからず候」(現代語訳:よって皆川荘の支配・管理について間違いなく認める)というものであり、その意味するところは、恩賞宛行を約束をして味方に引き入れるための政治工作のひとつとして発給された書状だということだ。言い換えれば、足利成氏は、奥州白河氏を自らの陣営に引き入れるために、合戦の前の先行的な恩賞宛行をしたにすぎない。
 しかし、そうした足利成氏の意図とは別に、白河直朝は、文明3年(1471年)成氏に敵対する関東管領上杉顕定から軍勢催促を受ける(白河証古文書)。ただし、白河氏はそれに応ずる目立った動きはしていない。江田氏の表現を借りれば、「その間隙をつくようにして長沼秀宗・氏秀父子が皆川荘を支配下に収めた」のである。とはいえ、全く足がかりを持たないで、縁もゆかりもない土地を支配下に収めることが可能であったろうか。私見であるが、鎌倉時代末期に没落したとみられる長沼氏の一族・第一次皆川氏の旧臣たちが皆川荘の一部において土豪(小領主)として家名をつないでいたことがわかっている。それら第一次皆川氏の旧臣たちが、次郎系長沼氏の皆川荘への入部を誘導もしくは容認した可能性はないだろうか。今後の研究が待たれるところである。


 一方、古河公方足利成氏側からすると、この次郎系長沼氏の皆川荘入部は、永享の乱を機に鎌倉府の御料所ないしそれに準ずる所領に、上杉方の諸将が強引に入部し占拠するという、関東各地で起きている「強入部」(喜連川文書)に近いものであり、本来容認できるものではなかったはずである。 
 では、古河公方足利成氏は、次郎系長沼氏の皆川荘入部をなぜ承認ないし支持したのであろうか。
 足利成氏としては、一片の証判で奥州白河氏に先行的に恩賞宛行を約束したが、文明3年(1471年)敵対する上杉顕定から軍勢催促を受けるなど、頼りにならない奥州白河氏の代わりに、次郎系長沼氏が自分のもとに出仕し、自らの軍勢に加わるのであるならば、皆川荘への入部を認めることは選択肢として十分ありえたのではないだろうか。

 では、かつて永享の乱のとき、室町幕府=上杉氏派に属していた次郎系長沼氏は、いつの時点で古河公方足利成氏への出仕(臣下になる)を果たしたのであろうか。
 奥州白河氏が皆川荘を宛行われたのが文正元年(1466年)以降とすれば、次郎系長沼氏が皆川荘に進出するのは、関東管領上杉氏の軍事的影響力が低下し、関東の情勢が大きく変化する時期が考えられる。

 あくまで憶測に域を出ないが、大きな軋轢を伴わずに皆川氏が古河公方へ出仕できるチャンスは、文明9年(1477年)に関東管領山内上杉顕定の武蔵国五十子(いかつこ:現埼玉県本庄市)の本陣が崩壊し、上杉顕定が足利成氏との和睦を選択した時期から、最終的に室町幕府と足利成氏の「都鄙和睦」(とひわぼく)が成立する文明14年(1482年)頃までの間ではないかと推測する。

  一方、「金剛寺文書」によると、金剛寺を開基したとされる法名「金剛寺殿明室祐公大姉」(氏秀の父・秀宗の母とされる人物)が長録元年(1457年)8月に没したとされており、15世紀半ばころには、次郎系長沼氏が皆川荘へ事実上の入部(強入部)を果たしていたとする考え方も成立ちうる。そう考えた場合、先に示した【(年不詳)4月19日付け白川修理大夫入道宛て足利成氏軍勢催促状】の解釈が異なってくる。古河公方足利成氏は、次郎系長沼氏が皆川荘に強入部している事実を知ったうえで、奥州白河氏に出陣を促す書状を発給したと解釈されることになる。

 今後、更なる調査研究が待たれる。

 

古河公方と皆川氏

 皆川氏が古河公方足利氏と主従関係を結んだ証としては、皆川秀宗の子・氏秀の「氏」は、成氏または子の政氏から「氏」の一字(偏諱)を拝領したことにも表れている。氏秀の孫の成勝(しげかつ)が名乗ったとされる「山城守」の受領名も、成勝の孫にあたる皆川広照が「山城守」を名乗ることを天正6年(1578年)年頭御祝儀で古河公方足利義氏に認めてもらっている(喜連川文書)経緯から鑑みて、もともと古河公方から授けられた受領名であることが推定できる。
 よって、次郎系長沼氏一族の皆川氏は、初代古河公方足利成氏に仕えた秀宗・氏秀父子のころから、第5代古河公方足利義氏に仕えた俊宗・広照父子の時代まで、100年以上にわたり、古河公方足利氏とは代々親密な関係を築いていたといえる。

 ここで、皆川氏が領する皆川荘と古河公方との関係を示す興味深い史料を紹介したい。
 皆川氏が古河公方に出仕した時期からおおむね80年が経過した、弘治3年(1557年)8月6日に出された「北条家禁制写」(豊前市古文書)である。
 これによると、すでに古河公方足利氏を自らの統制下に置いていた北条氏は、皆川領内の梓・中方村(現栃木市梓町・仲方町一帯)の土貢(年貢)徴収を確実なものにするために、古河公方足利氏の家臣豊前左京亮(北条氏と親密な係があったとされる足利家臣)を入部させようとした。そのことを「葛西様 上意二付而」(公方様の御意向)に基づくものであるとして皆川俊宗に了承させようとしたのだ。(荒川善夫著「戦国期北関東の地域権力」291ページ参照)(古河市史資料編中世955号「北条家禁制写」豊前氏古文書抄)
 この「葛西様」とは、この当時、葛西城(現東京都葛飾区青戸)に在城していた古河公方足利義氏(在職:1552年~1583年)のことで、北条氏は自らの傀儡と化した古河公方の権力を媒介にして、かつて古河公方の御料所(公方直轄領)もしくはそれに準ずる所領であった領域の管理権を手中に納めようとしていたものである。このことから、皆川荘はかつて鎌倉公方の直轄地を引き継ぐ古河公方の所領であり、古河公方へ「土貢」(年貢)を納めるべき地域であったことを示唆している。

 以上のことから、皆川荘への入部は、江田氏の指摘のとおり、古河公方足利成氏の「承認もしくは支持」のもとで実現したもので間違いない。皆川氏は、下総古河を拠点とした古河公方を主と仰ぎ、当時、古河公方権力を支え皆川荘の周辺部を支配していた小山持政の強い影響下(成氏は持政を兄と呼ぶ「兄弟の契盟」の関係とされている)、改めて古河公方足利氏に臣従する皆川氏として権力基盤を確立させていったと考えるべきであろう。

 古河公方足利氏と皆川氏の関係は、天正8年(1578年)年頭の御祝儀に皆川広照が古河公方足利義氏のもとに出向いていることから、皆川氏は、天正8年までは形式上は古河公方足利氏を上位権力として推戴していたことが確認できる。
 下野国の領主で天正8年に古河公方に年頭の御祝儀を行っているのは広照だけであり、極めて異例である。広照は、御祝義の返礼として御書と扇を遣わされる関係にあり、古河公方との主従関係の確認行為を天正8年まで継続していたことになる。このことから皆川氏と古河公方との関係が特別なものであったことが理解できる。ちなみに、広照の最後の年頭御祝義となった天正8年(1578年)は、次章で詳し述べるが、広照は家康の麾下(臣下)に属し、中央権力を掌握しつつある信長への使者の派遣・馬献上を着々と準備していた年でもある。
 また、小田原の北条氏は、これまでの古河公方を形式上上位権力と仰ぐ「古河公方ー管領体制」から信長政権における分国大名へと政策転換を果たした年でもある。これにより、古河公方足利氏を頂点に組み立てられていた関東の政治体制は完全に解体する。そして、これまで古河公方足利氏に臣従し領地を拝領していた関東領主層は、地域権力・領域権力化を大きく進展させることにもなる。皆川氏もその領主層の一角にあった。天正8年は、まさに関東においては、時代が大きく転換する象徴的な年といえる。

皆川荘の由来

 ここで、次郎系長沼氏が入部した皆川荘はどのような経緯で古河公方の支配地となったのかを検討してみたい。
 皆川荘は、平安時代末期に成立したと考えられる荘園である。
皆川荘の範囲は、現在の栃木市皆川地区の皆川城内、大皆川、新井、岩出、志鳥、小野口、柏倉を中心とした地域である。なお、泉川は、前節で述べた中泉荘に含まれていた。(光明寺旧記)
 史料で確認できる皆川荘は、延応元年(1239年)12月25日の四条天皇宣旨写(門葉記)が最初である。それによれば、皆川荘は、順徳院の皇女大谷姫宮家領であったが、天福元年(1233年)に青蓮院門跡領となった旨が記載されている。荘園本家の移動は、承久の乱に敗れた順徳上皇が佐渡に配流されたためと思われる。
 順徳上皇は、後鳥羽上皇の第3皇子で、八条院暲子内親王の所領を起源とする王家領荘園・八条院領の継承者でもあった。承久の乱の時まで順徳上皇に継承されていた皆川荘は、前節で小山荘の成立ちで説明したとおり、平安時代末期に大規模な農地開発を請け負った在地領主が成長し、上皇が専制権力を握った院政と結びついて、領域内の支配権を一括して与えられる領域型荘園として設置されたものと推測される。
 小山荘の成立にかかわる開発領主であった小山氏と同様に、皆川荘にも開発領主がいたはずである。皆川荘と関係づけて考えられる人物として、「吾妻鏡」には、鎌倉時代初期に活躍した皆河四郎、皆河太郎と称した人物が出てくる。皆河太郎は、承久の乱のとき宇治川の合戦で負傷したと記録される鎌倉幕府の御家人であった。
 おそらく、この人物らを輩出した皆河氏が皆川荘の開発領主であった可能性は高い。この開発領主系ともいえる皆河氏の承久の乱後の動向は不明である。
 しかし、代わって、承久の乱の恩賞として皆川荘に入部してきたのは第一次皆川氏である。その第一次皆川氏が断絶した後、皆川荘は鎌倉幕府の滅亡にともなって建武新政府に収公されたと考えられている。その後、南北朝の内乱や関東における永享の乱、享徳の乱などの政治的混乱を経て鎌倉公方・古河公方に継承されていき、15世紀後半の文明年間の頃に名実ともに次郎系長沼氏=皆川氏の支配下に置かれるようになったのである。

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