補ー2 県庁移転運動とその中心人物

 明治9年(1876年)8月21日  これまで栃木県の一部であった上野国3郡(山田郡、新田郡、邑楽郡)が群馬県に編入される

 これにより、県庁所在地である栃木町は地理的に南部に偏りすぎており、「人民被治の不便を醸成している」(宇都宮市史第7巻近・現代編Ⅰ昭和55年発行51頁 明治15年4月28日小学東校結社連合町村会主意書)という主張が、宇都宮町を中心に起き、宇都宮町で県庁移転運動が起こる。一方、当然栃木町では巻き返しを図るため移転反対運動が起きた。その結果、最終的に明治16年(1883年)10月30日付けで三島通庸が県令になって3カ月を待たずに、明治17年(1884年)1月21日付で、県庁を宇都宮に移転することが太政官から布告されることになる。宇都宮町側の動向を中心にその真相を探る。

県庁移転運動の高まり
酒田県令時代の三島通庸
川村伝蔵と松方正義

県庁移転運動の高まり

 宇都宮町を中心に、大規模な県庁移転運動が起きたのは、明治15年(1882年)4月のことである。時の県令は、明治13年10月29日に就任した第2代県令藤川為親であった。

 明治15年4月には東校と西校で結社町村連合会が相次いで開催され、県庁の宇都宮移転を旨とする主意書について賛同を得、県庁移転熱は燃え上がったという。(宇都宮市史第7巻近・現代編Ⅰ昭和55年発行55頁参照)その中心的指導者は河内郡長・川村伝蔵だった。そして、同年12月7日には、那須・塩谷・芳賀・河内・上都賀など205町村の賛助捺印を得て宇都宮町の有志から移転の請願書が内務省に提出された。一方の栃木町側でも、翌8日には、有志による反対請願書が提出されたが、結果的に両請願とも内務省は却下をしている。このころ、栃木新聞の論説(12月1日から8日にわたる連載記事)では、藤川県令は、「ただ、世論に従いて此の義を決すると欲するのみ」と書かれており、世論の動向をうかがって判断を下そうとしていたとしている。こうして明治15年の宇都宮町の県庁移転請願運動は挫折した。

 ところが、明治16年10月に事態は急転直下する。これまで移転について態度を明らかにしてこなかった藤川県令は、10月29日付けで島根県令に転任となり、代わって10月30日付けで三島通庸が福島県令を兼ねて栃木県令になると、移転に向けた動きが活発化する。

 宇都宮市史によると、三島が任命されて8日目に当たる11月7日に内務省に建白書が提出され、同月21日に重ねて内務卿山田顕義宛てに上申書が提出されたとされる。三島県令にも同日付けで宇都宮町の有力者・福田治一郎が「三島公今回栃木兼任ニ付宇都宮移庁ノ件周旋願ウ」と周旋願を提出している。(三島通庸関係文書書翰の部60号福田治一郎)その後、時を経ずして「幾ばくならずして、県令、委員を召し、論告して曰く、移転の事まさに政府の容るる所となるを持って之が資金3万5千円を要す。今日より去って募集に尽力せよ云々」との記事が栃木新聞に掲載された。この三島の諭告(ゆこく)があったのは11月29日であった。つまり、11月29日の時点で三島はすでに政府から県庁移転の内諾(内示)を得ていたということだ。宇都宮市史は、この経緯について「建白より許可内示までの、きわめて迅速であったことは、すでに三島県令の決断と根回しのあったことを物語るものであろう。」と指摘している。(宇都宮市史第7巻近・現代編Ⅰ昭和55年発行69頁参照)

 しかも、移転費の献金についても、宇都宮町側は、12月4日付けで三島県令宛てに「県庁移転献金之儀に付願」を提出している。その内容は、県庁新築費用を5万円募集献納するとの申し出である。宇都宮市史第7巻近・現代編Ⅰ72頁には、この経緯を次のように評している。

12月4日の移庁献金願は、かねがね用意していたことであるとはいえ、いかにもすばやすぎる。米1石が5円78銭当時の5万円である。要求の3万5000円を上回る5万円献金願を、響きに応ずるように提出したのは、政治的演出ではなかったか。

酒田県令時代の三島通庸

 実は、三島が県庁移転を行ったのは栃木県が初めてではない。三島が明治7年12月に酒田県(鶴岡を含む現在の山形県庄内地方)の県令に赴任した後、わずか8か月後の明治8年8月31日、酒田にあった県庁を鶴岡に移すことを実現させていた。このときは、「酒田県を廃止し、鶴岡県を置く」という内務省からの県名変更の達示(たっし)を得ていたというから驚きだ。(丸山光太郎著「土木県令・三島通庸」栃木県出版文化協会 昭和54年発行 58頁参照)

三島通庸 山形市郷土館所蔵

 思うに、この時の酒田と鶴岡の状況が、栃木と宇都宮の関係にすこぶる似ている。酒田は、羽州屈指の港町で、本間家などの豪商が活躍する町だった。三島が赴任した当時、庄内地方は、明治政府の不当な年貢取り立てに反対する農民運動(ワッパ騒動)が起き、酒田はその指導者・森藤右衛門の出身地でもあった。舟運で栄え自由民権運動の拠点でもあった栃木に非常に似た状況だ。一方の鶴岡は、旧幕府時代は庄内藩酒井家の城下町として栄えたが、戊辰戦争のときは新政府軍と戦い降伏の痛手を負っていた。鶴岡は戊辰戦争で戦火にまみえた城下町宇都宮に状況が似ている。

 鶴岡への県庁移転は、大久保利通が実権を握っていた時で、三島を酒田県令に任命することで農民騒動の鎮圧に向かわせたと言われている。鶴岡は県庁移転に町あげて協力した。明治政府の三島県令の起用、そして鶴岡への県庁移転は、後に栃木県でも自由民権運動の抑圧を企図して同じ手法を取ったと勘繰られても致し方ないだろう。

 山形県鶴岡市には、警察力の権威を示す明治17竣工の旧鶴岡警察署庁舎(公益財団法人 致道博物館所有)が現存している。

三島県令の命により建てられた旧鶴岡警察署庁舎(木造2階建て疑似洋風建築:国重要文化財)山形県ホームページ

川村伝蔵と松方正義

 栃木県庁移転の決定には、政府側の意図のみならず、当然、移転先の経費負担を含めて宇都宮町側の県庁移転運動が大いに影響していたことは間違いない。県庁移転運動の中心を担ったのが河内郡長・川村伝蔵であった。彼の政治的手腕・影響力は、栃木のいわゆる豪商たちを含め他の追従を許さないほど大きなものだった。

 川村伝蔵は、旧幕府時代には銀座の役人であったという。江戸日本橋で材木商を営む豪商で、代々幕府の御用達を努めていた川村伝左衛門・迂叟(うそう)の養嗣子である。

 川村家は、長年にわたり宇都宮藩主・戸田家との関係が深く戸田家を資金面でバックアップしていた。文久2年(1862年)にその見返りとして戸田家から500石を贈られた。伝左衛門が得た土地は、河内郡石井村の鬼怒川左岸など数か所におよび、伝左衛門は、その拠点となる石井村で荒地を開墾し桑園経営に乗り出す。明治2年(1869年)には大嶹商舎(おおしましょうしゃ)を設立し、官営富岡製糸場より1年早い明治4年(1871年)に洋式製糸機械を導入するなど、近代製糸業の先駆的存在であった。(栃木県養蚕農業協同組合連合会編集「栃木県養蚕連のあゆみ」平成6年発行)大嶹商舎には、明治9年(1876年)の明治天皇の行幸をはじめ、岩倉具視、井上馨、大隈重信などの政府の要人が多数来訪しただけでなく、明治12年(1879年)にはアメリカの元大統領グラントが来日の折に視察に訪れている。伝蔵は、伝左衛門の後継として明治政府にも幅広い人脈を持っていたと推測される。

 それを裏付けるものが三島通庸文書(国会図書館 憲政資料室所蔵)に残っている。その三島通庸文書によると、三島が栃木県令に任命された明治16年10月30日の翌31日には、明治14年の政変で大蔵卿を事実上解任された大隈重信に替わり、参議兼大蔵卿となっていた松方正義が、三島通庸に、兼任祝と称して「栃木県製糸家川村氏」を紹介している。(三島通庸文書書翰の部172号松方正義)当然、この「川村氏」とは、大嶋商舎の舎主で河内郡長でもあった川村伝蔵のことである。この文書は、西郷・大久保亡き後の薩摩閥を率いる松方正義と伝蔵とが既に親交があったことを裏付けるもので、三島の県令就任についても事前に松方ルートから情報を得ていた可能性がある。県庁移転の内示があった明治16年は、伝蔵(1847年生まれ)36歳の時である。

 川村伝蔵は、このとき松方正義を通じて三島に紹介されているところをみると、それ以前は三島とは面識がなかったものと思われる。しかし、その後、三島と伝蔵とは急速に接近した。それを示すものとして、三島通庸文書には「明治17年9月6日御子息洋行ノ由御相談ニ応ズ」と記された書簡が残っている。(三島通庸文書書翰の部111号 川村伝蔵 栃木県郡長)伝蔵は、9月15日に予定されていた県庁開庁式(実際には加波山事件にかかわる不穏の企ての情報により10月23日に延期)直前に三島の子息(弥太郎)の洋行資金を支援したいと申し出ているのだ。実際、弥太郎は、官費留学生としてその年に渡米している。川村伝蔵と三島の関係を知るには十分すぎる史料だろう。しかし、そのことをもって、川村伝蔵の栃木県における産業の発展に貢献した事実・功績を否定するものではない。

 では、三島に川村伝蔵を紹介した松方正義と伝蔵との親交関係は、どのように構築されていたのであろうか。その鍵となるのは、紹介状にある「栃木県製糸家」という文言である。松方は明治13年(1880年)2月に内務卿になるまで明治10年(1877年)1月から約3年間、内務省勧農局長であった。勧農局とは、農業生産の促進・拡大を図るための国家政策を推進する部署である。もちろん農業生産には養蚕も含まれている。松方は明治12年に勧農政策の基本指針を示した「勧農要旨」を著し、次のように主張した。

政府以テ各般ノ民業ニ着手シ事ヲ好ミ功ヲ貪ホル如キハ,反テ人民自為独立ノ気勢ヲ挫折シ百事政府ニ倚頼スルノ風習ヲ養成シ,或ハ人民営業ノ利ヲ妨害シ,大ニ国内ノ生殖力ヲシテ減退セシメ,其弊害タル得テ測ルヘカラサラン

 政府の民業介入が人民の独立の気性を削いで政府への依存を招き、生産力は減退し、その弊害は測りがたいというのだ。(梅村又次著「松方財政と殖産興業政策」 第Ⅱ部第8章:松方デフレ下の勧業政策 東京大学出版会1983年発行)これにより、明治政府の勧農政策が積極政策から緊縮政策への転換が進むことになる。

松方正義 国立国会図書館所蔵

 川村家が創業した大嶹商舎は、まさに松方の勧農緊縮政策において、官営廃止・民業優先路線を体現したものであった。

 しかも、大嶋商舎は、明治11年(1878年)第3回パリ万博に生糸を出品しており、その時、勧農局長であった松方はパリ万博副総裁も兼務してフランスに渡航している。(柏村祐司著「なるほど宇都宮  歴史・民俗・人物百科」06近代工業の先駆け・大嶋商舎の器械製糸工場 随想舎2020年67頁参照)さらに、明治12年(1879年)のアメリカの元大統領グラントの大嶋商舎視察も松方が勧農局長の時であることを鑑みれば、松方と伝蔵が極めて近しい関係にあったことは十分推測される。  

大嶹商舎の商品ラベル(栃木県立博物館蔵)

大嶹商舎パンフレット(栃木県立博物館蔵)

 栃木県庁の宇都宮移転に重大な役回りを演じたともいえる三島と松方であるが、その二人はともに、様々な手段を用いて那須野が原の広大な官有原野を取得し大規模農業経営に乗り出していく。三島が那須野が原の土地を求めるのは明治13年(1880年)だが、これには、松方正義の勧めがあったと言われている。彼らの那須が原における広大な土地取得と農場経営に向けた動きは、県庁移転とどのように関連するのか、次節で検証したい。

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