補 論 明治17年 栃木県庁の宇都宮移転の背景
明治17年(1884年)1月21日、突如、栃木県庁を宇都宮に移転する太政官布告がなされた。時の県令は三島通庸。栃木町民がこぞって反対する県庁移転を三島が強行した背景には何があったのかを検証する。
補-1 自由民権運動発祥の地・栃木
史蹟橡木県庁舎址
民権結社「下野結合会」の発足
戊辰戦争における新政府軍との接点
豪農民権運動の高揚期の情勢
自由党による「自由運動会」の開催
第2代県令藤川為親の島根転出
史蹟橡木県庁舎址
かつて、栃木町(現栃木市)に栃木県庁があったことを示す唯一の遺構として県庁堀がある。そのお堀端にたたずむ栃木市立文学館(旧栃木市役所別館)の北東角に、「温故知新 史蹟橡木県庁舎址」と刻まれた石碑があり、次のような文言が記されている。

予以為(おもへ)らく これより先上野国三郡群馬県に編入栃木町の位置その中心たるを失ひしを以て理由となすも その真意はこの地 本県における自由民権運動の発祥地たるとわが郷党の進取自由の気を避けしなるべし 昭和42年10月22日 -日向野徳久 撰
宇都宮へ県庁を移転する太政官布告がなされたのは、明治17年(1884年)1月21日。時の県令は土木県令とも鬼県令とも言われる薩摩藩出身の政治家・三島通庸(みしまみちつね)であった。
この碑文の記しているところを読み解くと、栃木県庁が宇都宮に移転した理由は、明治9年(1876年)8月に上野国三郡(新田、山田、邑楽の三郡)が群馬県に編入されたことに伴い、栃木町の位置が栃木県の中心地ではなくなったことを最大の理由とされているが、実は、県令・三島の本当の狙いは、政府に敵対する自由民権運動が盛んな栃木町を避けたいがためだった、というのである。
日向野徳久氏(昭和42年(1967年)当時栃木市文化財保護委員長)撰文のこの碑文は、約90年経た昭和の時代になっても抱いている栃木市民たちの県庁移転の悔しさを表現している。
栃木市民にとって、三島は自由民権運動を徹底的に弾圧した最悪の政治家の代表であった。その評価は、宇都宮市民や県北地域県民の方々の三島に対する評価・意識とは雲泥の差がある。例えば、那須塩原市三島には、那須野が原開拓で功績があったとされる三島通庸を祀った三島神社でさえ存在する。栃木県神社庁のホームページでは御祭神である「三島通庸命(みこと)」を次のように紹介している。
御祭神三島通庸命は、至誠、不撓不屈の精神を持ち、詩人・哲学者であり、明治維新に際しては、志士として活躍。西郷隆盛公に招かれ出府、東京府権参事をはじめ、酒田山形県令、福島県令、栃木県令を歴任、那須野ヶ原の開拓、道路の開削・改良・那須疎水事業の援護等地方産業の発展に地方長官として尽力。又、警視総監としても卓越した実績をあげる。特旨をもって、華族に列し、子爵を授けられた。塩原温泉祭には、塩原地域の恩人として、又 神社の例祭には子孫の方々が招待参列されている。
宇都宮以北の県民の三島に対する評価は、「土木県令」としてのプラス評価が、自由民権運動を弾圧した「鬼県令」としてのマイナス評価を上回っているのだろう。
現在は、栃木市民の三島に対する嫌悪感は薄れてはきているものの、識者においては三島に対する基本認識はそれほど変わってはいない。
では、歴史の真実はどうであったのか。栃木県庁移転の深層を探ってみよう。
民権結社「下野結合会」の発足
まず、栃木市側が主張する「史蹟橡木県庁舎址」の石碑に刻まれている「本県における自由民権運動の発祥地」と「わが郷党の進取自由の気を避けしなるべし」という言葉の意味するところを検証したい。
栃木県における自由民権運動の烽火は、吹上村(現栃木市吹上町)からあがった。同村の塩田奥造(嘉永2年:1849年10月生まれ)、新井章吾(安政3年:1856年3月生まれ)らは、明治13年(1880年)5月に、栃木県最初の民権運動演説会といわれる「教育勧業演説会」を、吹上村の正仙寺で開催した。この演説会は、同年4月に公布された集会条例に抵触しないよう「教育」と「勧業」を目的とする体裁をとったものであった。
続いて、8月25日には、塩田奥造、新井章吾、榊原経武(士族出身代言人)、鯉沼九八郎(稲葉村豪農出身)らは栃木町大和屋半兵衛方(現栃木市万町「かな半旅館」)に集まり小会を開き、次いで30日、31日には、安蘇、芳賀、下都賀、河内4郡から92名が参加して、栃木中教院(現神明宮拝殿)で県下民権家の統一を図る民権結社「下野結合会」(しもつけけつごうかい)へと発展していった。この時、塩田奥造は議長となり「民権ヲ拡張シ帝室ヲ補翼シテ、国権ヲ確定ナランコトヲ務ベシ」その他の規約を議決している。(大町雅美著「自由民権運動と地方政治 栃木県明治前期政治史」随想舎46頁、「栃木県史」通史編6近現代1 128頁参照)
さらに、栃木の自由民権運動を言論活動、思想普及の面で大いに貢献したのが明治12年8月に創刊した共進社発行の第2次「栃木新聞」(栃木町旭町)である。その編集長が田中正造であった。田中は、明治13年7月に、第2次「栃木新聞」の創刊メンバーの斎藤清澄(粟野町尾鑿山神社 社家)、中田良夫(栃木町万町)のほか塩田奥造、新井章吾、小室重弘(宇都宮町)の連名で「栃木県下同志諸君ニ告クル書」と題し、国会開設と民権を回復し、自由を拡張しようとの檄文を県下にばらまいた。この檄文を機に、県内の民権活動は急速に高まったとされる。(下野新聞社社史編さん室編集「下野新聞社史」平成16年6月発行 11頁)
また、明治13年には栃木町の商人が主体的に参加した民権結社「有朋社」も結成されている。「有朋社」は同年9月、3代目毛塚源蔵(倭町の紙類商の老舗「中源」当主)を中心にした結社で、翌14年にかけて演説会を開催している。(石崎常蔵著「栃木町を愛した平和主義の男 栃木県第二代目県令 藤川為親」107頁)
「下野結合会」は、明治13年8月に県下民権家の統一を図って発足を図ったものだが、後に、安蘇郡と士族を中心とした宇都宮の一部の民権家が主張等の違いにより独自行動をとったため、10月には「下野結合会」の主力が「下野有志共同会」と名を改めて再構成され、塩田奥造と横堀三子(よこぼりさんし:芳賀郡祖母井村)が国会請願書捧呈委員に選ばれた。富張村の大橋源三郎も幹事の一人に選任されている。(「栃木県史」史料編 近現代1 569頁 下野国有志共同会記事)11月の国会開設請願に当たっては、安蘇郡を除く県内7郡8町10宿293村、人民8725名による請願になった。その総代を務めたのが塩田奥造と横堀三子で、明治13年11月11日付けで「国会開設請願書」を太政大臣三条実美に提出した。(「栃木県史」史料編 近現代1 519頁 国会開設請願書)
「下野有志共同会栃木部」(共同会の栃木支部に当たる)では、請願書捧呈のため上京する塩田奥造の壮行会を10月24日に大和屋半兵衛方で開催している。発起人として、新井章吾、飯塚勝三郎(木野地村)、山田勇(代言人)、多賀恒信、榊原経武、早川兵太、片柳俊助が名を連ねている。(「栃木県史」史料編 近現代1 571頁) 早川と片柳は先に紹介した栃木町の商人が主体的に結成した「有朋社」の発起人でもあった。
栃木県内では、同時期に、「下野有志共同会」のほかに国会開設を求める建白書が宇都宮や安蘇郡などで4件提出されているが、その参加人員規模と地域の広がりの点で「下野有志共同会」の請願運動が他に抜きん出ている。
塩田奥造や新井章吾をはじめとする栃木の民権家たちのこうした動きが、まさに栃木市こそが「栃木県における自由民権運動発祥の地」とされるゆえんであろう。
戊辰戦争における新政府軍との接点
では、なぜ、塩田奥造や新井章吾は、吹上村という地域共同体を超えた政治活動に向かったのか。吹上村は、天保13年(1842年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までの29年間、摂津有馬氏(1万石の譜代大名)が支配する吹上藩の領地であったことから、藩校など学習機会が多く、高い教養水準にあったとも。だが、それだけで吹上村が他の町や村々に先駆けて突出した民権家を輩出した理由になるだろうか。そこには吹上村特有の事情があったに違いない。それは、戊辰戦争における新政府軍との接点である。
吹上藩は、戊辰戦争の時、中山道を進軍する岩倉具定(ともさだ:具視の次男)東山道鎮撫総督のもとに出向き、いち早く新政府軍に帰順している。このとき、塩田奥造は藩の使者に随行していた。(吹上尋常高等小学校編「吹上郷土史」塩田奥造氏略伝 原本大正2年 復刻版平成2年)慶応4年(1868年)4月、吹上藩は、土佐藩兵、因州(鳥取)藩兵等を主力とした新政府軍にいち早く加わり、壬生安塚で大鳥圭介率いる旧幕府軍と交戦した。安塚での激戦の状況は江戸板橋にいる新政府軍の参謀・板垣退助のもとに知らされ、板垣の指揮で援軍が送られたという。現栃木市吹上町にある正仙寺には、安塚の戦いで戦死した吹上藩の藩兵の官修墓地(官費によって定額の維持修繕費が支払われた墓地)がある。

慶応4年4月22日安塚の戦い(壬生町・地域史料デジタルアーカイブス)

正仙寺 本堂

正仙寺官修墓地(中央にある墓石が官修墓地、両側には戦死した4名それぞれの戒名が書かれた墓石もある)
前掲書塩田奥造氏略伝によると、塩田は、「皇軍に従い諸方に転戦し、ついに会津戦争に参加す」と記されている。塩田は、明治14年に板垣退助ら土佐藩士族を中心に結成された自由党へ入党することになるが、推測するに、会津戦争において参謀を務めた板垣退助や片岡健吉、西山志澄(ゆきずみ)等、後に自由民権運動の指導者となる土佐藩士族と、この時に接点があった可能性は十分にある。
新井章吾は、塩田の7歳下にあって二人は従兄弟だった。新井の屋敷は塩田家の屋敷に隣接していることから、塩田の影響も受けながら民権運動に加わっていったのだろう。また、新井の妻・種子は、「民撰議院設立建白書」署名人のひとりで佐賀の乱(佐賀戦争)の首謀者として刑死した江藤新平の姪(栃木県参事・柳川安尚の養女)だったことから、江藤の影響もあったかもしれない。
塩田と新井は、ともに明治23(1890年)年7月の第1回衆議院議員選挙で当選を果たし国政に身を投じている。塩田は落選を機に明治28年(1895年)に実業界に転身したが、新井は明治39年(1906年)10月に51歳で急死するまで生涯国政を舞台に活動を続けた。

塩田奥造(栃木市史編さん委員会編「目で見る栃木市史」掲載)

新井章吾(栃木市史編さん委員会編「目で見る栃木市史」掲載)
ちなみに、福島県の自由民権運動の指導者・河野広中(こうのひろなか)も、戊辰戦争の時、板垣が率いる新政府軍の断金隊(隊長は土佐藩士 美正貫一郎:みしょう かんいちろう)に加わり会津戦争に従軍している。福島県では、栃木県に先立ち、明治8年(1875年)8月河野広中らが中心となって福島県石川(現福島県石川町)に東日本最初の民権結社「有志会議」(明治11年発足する「石陽社」の前身)が創設された。石川町は、「東北における自由民権運動発祥の地」とされている。
戊辰戦争で得た人脈が奥田や河野のその後の自由民権家としての活動に大きく影響していたことは間違いあるまい。
豪農民権運動の高揚期の情勢
一般に自由民権運動と呼ばれる明治前期の政治運動は、当初、政府に不満をもつ士族が中心となっていたと言われ、教科書的には「士族民権運動」と呼ばれている。やがて地方民会(県会等)の設立を通じて政治に参加するようになった豪農層が加わり、全国的な展開を見せ、各地で政府を批判する政治演説会が開催されるようになる。この時期の自由民権運動を「豪農民権運動」と呼んでいる。
塩田奥造、新井章吾、田村順之助(水代村)、鯉沼九八郎(稲葉村)、横堀三子(芳賀郡祖母井村)ら豪農出身者が中心となって創設された民権結社「下野結合会」は、まさにこの時期の自由民権運動に該当する。塩田は、明治12年(1879年)4月に実施された第1回栃木県会議員選挙の翌年、明治13年(1880年)12月に行われた半数改選選挙に出馬し初当選を果たした。横堀三子と田中正造は明治13年2月の補欠選挙で、新井章吾は明治15年2月の補欠選挙で、田村順之助は明治17年6月の半数改選選挙でそれぞれ県議に当選した。(「栃木県史」史料編 近現代1 493頁参照)
当時の政府は、明治11年(1878年)7月にいわゆる三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)を制定し、公選議員による府県会を組織することによって、豪農家など地方の有力者を県行政に取り込む懐柔策を行い、反政府的な気運をそらそうと意図した。しかし、選挙による地方議会が発足したこと大変な意義があり、府県会はかえって自由民権運動を高揚させる結果につながったとされる。
豪農層の府県会等への政治参加の背景には、彼ら自身の政治的・経済的成長とともに、地租などの負担の軽減を求める農民たちの要求があったと言われている。しかし、当時の県会議員選挙の方法は、府県会規則(明治11年太政官布告第18号)で定められ、選挙権は地租5円以上納める満20歳以上の男子、被選挙権を有する者は地租10円以上を納める満25歳以上の男子に限られていた。当時、栃木県における県会議員選挙の被選挙権者の数・割合は不明であるが、他県の例によると、福井県においては、明治14年の県会議員選挙の被選挙権者の割合は、2.4%であったとされている。(「福井県史」通史編5近現代1第1章 参照)栃木県も概ね同様の数値であったと推測される。つまり、このことは、都市部にはほとんど有権者がいなく、大地主・豪農本位の「制限選挙」であったということだ。しかも、被選挙権を持つ大地主・豪農たちは一方で金融業(地主質屋)の経営者であった者も多く、租税や借金で苦しむ小農民や土地を持たない小作人たちとは本質的に立場を異にするものであった。
したがって、大地主・豪農たちの政治参加は、農民全体の要求に十分応えた活動にはなりえなかったと推測される。事実、明治14年(1881年)から松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策「松方デフレ政策」による経済不況のもとで、借金の返済不能による公売処分などを受け、土地・財産を失い没落する小農民が全国的に急増した。小農民が手放した土地は、経済的に余力のある豪農のものとなり、小作農の増加が社会的な重大事となっていく。不景気が最も深刻化した明治16年(1883年)から明治17年にかけて全国各地で負債農民による騒擾(そうじょう)が頻発するようになった。
こうした状況に対し、薩摩長州の藩閥政治家を中心とする明治政府は、明治13年(1880年)4月に集会条例を制定し民権派の弾圧を行った。明治15年6月には集会条例が強化され「政治に関する事項を講義するため結社する者は、結社前その氏名、会則、会場および社員名簿を管理警察署に届け出で、その認可を受くべし」となり、地方長官(県令)に1年以内の演説禁止権・解社命令権が与えられるなど、政府の民権運動弾圧は一層強まりを見せている。その急先鋒を担ったのが三島通庸である。
三島が福島県令であった明治15年(1882年)11月には福島事件が起きる。福島事件とは、住民を道路工事の人夫として強制的に借り出すなど、住民に重負担を強いる会津三方道路工事事業に、福島県の自由党員や農民が反対運動を起こし、三島県令がそれを弾圧したものだ。これにより河野広中ら自由党幹部25名が逮捕された。
福島県令時代の三島の行動については、民衆史研究の第一人者であった色川大吉氏が、その著書「自由民権」岩波新書1881年発行152頁で端的に言い表しているので以下引用する。
(三島は)その第一声で「予は政府より三個の内命をうけて赴任したものである。自由党の撲滅はその一、帝政党の援助はその二、道路の開鑿(かいさく)はその三である。」と宣言し、旧会津士族に土地を払下げ、資金をあたえて帝政党を結成させ、農民には奴隷的な夫役を課して三方(さんほう)道路の開鑿を命令し、それに抵抗する自由党員には帝政党員をけしかけて暴力をふるわせ、そのうえ警官を使って弾圧に狂奔するという、まさに圧制を絵にかいたような政治を行った。
一方、福島県編集・発行の「福島県史」では、三島の行動と福島事件をより客観的観点から、次のような示唆に富む見解を示しているので紹介する。
県会における議案毎号否決の議決と会津地方三方道路開鑿(かいさく)工事の強行に反対する農民数千名の示威行動は、三島の圧政によって触発されたものではある。しかしその政治的対抗の激化は一県令の特異な圧政によって偶発的にだけ起きたものではない。より根源的には、福島県地方が自由党勢力の最も強い一地方であり、他方では三島県令の自由党撲滅と道路開設の強行という二大政策が当時の明治政府の政策の集中的表現であり、したがって全国的な対抗関係が当地方に集約的に現れたことによって必然的に起きたものとみることができる。(「福島県史」第4巻通史編4近代1 昭和46年発行 41頁)
その後、民権運動はさらに激化し、明治17年(1884年)5月の自由党急進派と負債農民とが一団となって起こした群馬事件、同年9月急進的活動家による三島通庸等爆殺未遂事件(加波山事件)、同年11月には数千人規模の負債農民による民衆蜂起(秩父事件)につながっていった。
自由党による「自由運動会」の開催
栃木町を含む下都賀郡においては、明治16年に、自由党は党勢拡大のため「運動会」という名目の集会(いわゆる「自由運動会」)を各地で開催した。6月9日に合戦場(現栃木市都賀町合戦場)で、7月11日には富張村(現栃木市都賀町富張)で、8月9日には吹上村で運動会が行われた。さらに、8月17日には鯉沼九八郎が会主となって稲葉村鯉沼が原でも開催された。自由民権運動の激化を懸念していた政府は、密偵を放って運動会を探索しており、富張村神楽岡付近の原野で行われた運動会の様子が報告書(県大書記官片山重範から内務省警保局長勝間田稔あてに送った機密探偵書)に描かれている。その内容は概ね次のようなものであった。
①下都賀郡吹上村・富張村最寄り20余か村の人々が集合してしばしば運動会を原野に開会した。その主要な誘導者は、自由党員の塩田奥造、同新井章吾等である。②最初は旗奪い綱引きであったが、近来になって白シャツ・紺股引きを着け、紙張りで軍帽に模し、軍銃に擬した紙張り銃や木銃で隊伍を組み、石油空き缶それに横笛をならして進退し、騎馬または徒歩の隊長が号令を発し、練兵と変わらない。③紅白の旗を立て「自由以血買」「百姓財尽」の文字を記したもの、貧民隊などあり、乞食のような醜装をしたものもいる。隊伍を組んで会場に進み、村落を過ぎる毎にときの声をあげた。 (日本体育学会大会号第54回2023年 中京大学 木村吉次「いわゆる壮士運動会の機密探偵書について」 参照)
運動会の様子は、錦絵にも描かれた。下に掲載した作者不詳の錦絵「大熊及海坊主退治」は、6月に合戦場で行われた「自由運動会」の様子を描いた風刺画である。大町雅美著前掲書115頁では、この運動会の状況を次のように説明している。
海坊主退治といって張り子の船を造り、また悪獣退治といって大きな熊を作り、これらを船は三菱会社に、熊は大隈重信に見立てて、船は窮民隊を後ろ盾に砲兵隊が攻撃し、熊は自由隊が攻撃した。これは具体的に偽党の象徴たる三菱会社の船と、大隈に仕立てて攻撃するといったものであった。
この時の「自由運動会」は、郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎とそれに癒着し結託する大隈重信の立憲改進党を批判することが主目的で、自由党こそ真に国家の公党であり、改進党は国家の偽党であるという「偽党撲滅」を訴えるものだった。図右上の海坊主の乗った船には三菱マークの旗が見える。一方、改進党も板垣退助のヨーロッパ視察(洋行)費用が三井財閥から出たものと非難するなど、民権運動の主導権を巡って両党が非難応酬をしていた時期でもあった。

作者不詳 錦絵「大熊及海坊主退治」明治16年(1883年)(栃木県立博物館 所蔵)
宇都宮への県庁移転は、こうした自由民権運動の動きが栃木町を中心に下都賀郡内の町村で最も活発化するさなかに強行されたのである。まさに、「史蹟橡木県庁舎址」石碑に県庁移転の理由として「わが郷党の進取自由の気を避けしなるべし」と記されても致し方ない状況にあったことが推測される。
第2代県令藤川為親の島根転出
栃木県庁が移転を考える場合、その起点となるのが県庁移転の3年前に起きた「明治14年の政変」(以下「政変」という。)にあると筆者は考えている。なぜ、「政変」が県庁移転の起点になるのかを説明しよう。
まず、「政変」の概略は次のとおりだ。
明治14年(1881年)7月、開拓使長官の黒田清隆(薩摩藩出身)は、北海道開拓使の廃止にあたり、一切の官有物を薩摩出身者が経営する商社(五代友厚が出資)に払い下げる。この処置は、薩長藩閥政治の弊と批判され、国会開設を要求する世論が高まった。(開拓使官有物払下げ事件)そのため、政府は、同年10月、北海道官有物払い下げの許可を取り消すとともに、国会の早期開設を唱えた参議大隈重信(肥前佐賀藩出身)をその動きに関係ありとして免官し、さらに、同23年(1890年)を期して国会を開設することを勅諭で明らかにし、事態の収拾を図った。これを明治14年の政変という。(国立公文書館 明治宰相列伝より抜粋)
「政変」に関しては、これまで数多くの研究が重ねられてきたが、ほぼ共通して強調されていることは次の2点である。
①「政変」により、政府から異質的勢力が排除され、伊藤博文を中心とした旧薩摩藩及び旧長州藩出身の有力者による薩長藩閥政権が確立された。 ②「政変」を踏まえて大日本国憲法制定へ向けての第1歩が踏み出された。
①でいう「異質的勢力」とは肥前佐賀藩出身の参議大隈重信を頂点とする政治的一派を指している。
明治14年当時、栃木県の県令は、初代県令・鍋島幹から引き継いだ第2代県令藤川為親であった。鍋島も藤川も肥前佐賀藩の士族出身だった。藤川は、明治16年(1883年)10月、島根県令に転任になった。藤川は肥前佐賀藩出身であったが地方官であったことから、明治14年の政変そのものには直接関係はしていなかったろうが、それ以降、薩長藩閥中心の政府からは遠ざけられる存在であったことは間違いないだろう。なぜなら、島根県令への転任は、中央政府から遠ざけられたことを意味するからである。前栃木県令の鍋島幹も、明治19年(1886年)に元老院議官から青森県知事に転任になった。藤川の後任は、薩長藩閥のなかでも強権政治家で知られる三島通庸であった。栃木県令への三島の起用は、薩長藩閥政府の意図をあからさまに表出する人事でもあった。
藤川は、島根県に赴任するに当たって、栃木県の役人100余人を引き連れていった(「栃木市史」資料編近現代Ⅰ早乙女祥「ある明治の風景」187頁参照)ことも、結果的に当時の栃木県庁内の佐賀藩閥一派の一掃にもつながり、三島県令にとって県庁移転をやりやすくしたとも推測される。
藤川は、明治4年(1871年)11月に、栃木町に県庁が設置されたときから大参事として前県令鍋島幹を支え、明治13年10月に栃木県令に就任し、島根県令として転出する明治16年まで、12年の長きにわたり栃木町に居住していた。明治14年6月に栃木町相生町(現栃木市室町)に自邸を新築するなど、栃木町には並々ならぬ愛着を感じていたことが推測される。藤川は、島根着任の2年後に在職中急死した。遺言によりかつて12年間慣れ親しんだ栃木の地・白旗山勝泉院(栃木市湊町)に葬られている。

栃木県第2代県令 藤川為親とその一族の墓(白旗山勝泉院)
次節では、宇都宮側の県庁移転運動とその中心人物について考察することにしよう。
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- 第3章 徳川家康と皆川広照
- 第4章 北条氏との最終決戦と小田原合戦
- 第5章 栃木城築城と栃木町の成立ち
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