第5章 栃木城築城と栃木町の成立ち

皆川氏による栃木城築城から城下町の整備が道半ばで潰えるまでの状況を探る

5-1 栃木城築城と皆川氏の盛衰

 栃木市の成立ちを考える場合、栃木城の存在抜きには語れない。栃木城はどのような思惑で築城されたのかを検証する。

新地存立とは
江田新説「1579年頃から築城がはじまる」
江田新説を補強する材料
栃木城と城下町
栃木町の形成
譜代大名皆川氏の盛衰
 長沼秀光が築いたとされる「古城」について

新地存立とは

 沼尻の合戦後、皆川広照は栃木城の築城に取りかかった。
この時点でなぜ広照は栃木城の築城を決断したのであろうか、それを知る手がかりとして、沼尻の合戦直後に出された天正12年(1584年)11月23日付け浅葉十郎左衛門尉宛て皆川広照書状が知られている。その概要は次のとおり。

【天正12年11月23付け浅葉十郎左衛門尉宛て皆川広照書状】
①沼尻の合戦の顛末を報告
 天正11年(1583年)春以降北条氏直が下野国に乱入し、皆川領内の支城にも攻めかかってきた。佐竹義重が皆川の援軍として出陣し、対陣は4月下旬から7月上旬まで続くも勝負がつかず、北条氏照の要望により互いに血判の誓詞を交わして和睦した。
②北条方は、和議後にもかかわらず上野新田を攻めたことは「前代未聞」の行為である。③拙者新地を存じ立て由(油)断なきの間、使者を以て申し上げず候。本意の外に候(原文読み下し)
④小牧・長久手の戦いにおける家康勝利を祝福

 この書状は、広照から家康への沼尻の合戦最終顛末書の性格の書状であり、広照にとって北条氏の侵攻にやむなく応じたことを伝え、和議後の北条氏の行動を「前代未聞」と非難するとともに、上方情勢への関心も抜かりなく述べており、家康との近さが十分に伝わる内容の書状である。
 このなかで、栃木城に関連する箇所は③である。大変重要な箇所なので原文読み下しを掲載した。ここで言う「新地存じ立て」とはいかなる意味か。同時代の文書、例えば上杉景勝宛て天正13年9月4日付結城晴朝書状の中で、「国綱、宇都宮抱え無く候間、新地取り立て候」とあり、宇都宮氏が「新地」である多気山城に本拠地を移転したことを記述している。このように、「新地存じ立て」とは、この時代、新しい城の築城または新しい城への移転を意味するものと解釈できる。
 したがって、この文書の③は、栃木城の築城に着手することを家康に伝える趣旨であることは間違いない。江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」202頁で、この書状の「新地」に当たるのが栃木城であり、沼尻合戦ののち「広照によって栃木城が築かれた」と指摘している。

 史料的制約もあるが、天正13年、14年の北条氏による皆川攻めの際に、栃木城に関する記録は見つかっていないことから、この時点では栃木城はまだ城としては機能していなかったものと考えられる。しかし、その数年後の天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めに際しては、「毛利家書」にあるとおり、「とちきの城」は「とみたの城」「なんまの城」とともに明確に位置づけられている。また、円通寺(現栃木市城内町)に残る、天和2年(1682年)から元禄15年(1702年)までにわたる過去帳には「天正14年丙戌栃木町立初」(とちぎまち たちはじめる)との記載がある。
 以上のことから、広照による栃木城の築城開始年は天正12年(1584年)で、北条氏への帰属が確定した天正14年には築城はおおむね完了し、城下町の整備にも乗り出したものと推定して間違いあるまい。

 栃木城の築城開始年は天正12年(1584年)としても、築城と城下町の整備は、広照の父俊宗の時代、すでに永禄6年(1563年)のころから構想されていたものと考えられている。
栃木市の中心街にある諸社寺の由緒を示すと次のとおり。

近龍寺                                                  元禄8年(1695年)に、近龍寺(三級山天光院)が浄土宗の本山江戸芝増上寺に差し出した寺由緒書によると、「永禄6年に至り時の領主皆川山城守俊宗入道心鉄斉大いに帰依し栃木町において寺領6反4畝26歩を寄付」とある。さらに天正16年(1588年)都賀郡宿河原村(現栃木市城内町)にあった称念寺を寄進された土地の所在する栃木町へ移転し、近龍寺と改めたとされている。(八百谷孝保氏著「近龍寺雑記」昭和45年発行 5頁)

定願寺
「下野国誌」の記述及び定願寺(順礼山修徳院)の古来伝えるところによると、皆川山城守成勝(しげかつ)の時、河原田合戦で戦死した亡父・宗成並びに戦死した家臣の菩提のために、永禄6年(1563年)に領内川連村の阿弥陀堂において常念仏の供養をしたとされ、常念仏料として巴波川畔に田地9反9畝2歩の寄進を受けたとされている。成勝は天文20年(1551年)に亡くなっているので、その子俊宗の誤りである。(栃木市史通史編634頁)寄進された経緯から推測すると、移転はおそらく近龍寺と同時期と推測される。

円通寺
宿河原(現栃木市城内町)、増山家系譜に、「これまで真言宗長清寺に葬っていたが、天正7年、川連邑より天台宗円通寺が、長清寺あとに移ってきたので円通寺に葬る」意味のことが記されており、天正7年(1579年)に円通寺が川連から現在地(栃木市城内町)に移転したものとされている。(栃木郷土史 136頁)

神明宮
上棟式棟札から応永10年(1403年)に神明宿(現栃木市神田町)に創建され、天正17年(1589年)に現在地(栃木市旭町)に移転したことが確認できる。

 これらの由緒によれば、皆川俊宗が川連村(現栃木市大平町川連)で阿弥陀堂供養の行われた永禄6年(1563年)のころから、将来的な栃木の城下町づくりを意図して、諸社寺領を巴波川左岸地区に集中させてきたと考えられる。実際に社寺の移転がなされたのは、天正年間(1573年~1592年)になってからで、栃木城の南端に位置する円通寺が天正7年(1579年)に移転し、近龍寺が天正16年(1588年)、神明宮が天正17年(1589年)、定願寺、満福寺、長清寺などの諸社寺もほぼ同時期に栃木城の西側及び北側にそれぞれ配置されたものと推測される。これらは城下町づくりに欠かせない宗教施設であるとともに、当然、城の防衛線として機能を持たせていた。栃木城の築城は、沼尻の合戦を契機に一挙に進んだものと考える。
 なお、文久2年(1862年)に河野守弘により著された「下野国志」では応永元年(1394年)皆川紀伊守秀光が栃木城を築城したとの記述があるが、「第2章 2-2 古河公方と皆川氏」で述べたとおり、そもそも皆川氏が皆川荘への入部を果たしたのが15世紀後半であるので、この記述の信憑性は極めて低い。

 では、皆川俊宗・広照父子は、なぜ現在の栃木市の中心部に栃木城を築城しようとしたのか。その意図はどこにあったのか。
 筆者はその意図は二つあると考えている。
 第1は、沼尻の合戦とその後の北条氏の「前代未聞」の新田金山城・館林城攻めの経験により、広照は、自らの領地の守りをより堅固にする必要性をより明確に認識したことにあると考える。
 皆川氏は、本拠地皆川城をめぐる防衛拠点として、西に壁谷城、堤崎城、南に富田城、太平山城、北に下南摩城(滝尾山城)、布袋が丘城、吹上城、東に箱森城など、四方の要所ともいえる場所に支城を配置している。しかし、北条氏照が既に占拠する旧小山領方面と対峙する地帯、すなわち東南の第1防衛ラインである巴波川からさらに東南方面へ進んだ第2防衛ラインともいえる赤渕川湿地帯(現在今泉町と大宮町との境に赤渕沼として湿地の痕跡をとどめている)までの間は無防備ともいえる状態だった。かつて、北条氏と反北条勢力とが激戦を演じた粟志川城(大宮城)周辺は、既に北条氏の支配下となっていることを考えあわせると、皆川城の東及び南東方面の境目の守りを強固にするために、その境目に位置する最前線の場所に、栃木城を築城又は強固なものにすることは戦略上必須条件であったに違いない。
 第2に、戦国大名として領地の経済力を高めるために、経済活動に有利な平地での築城及び城下町の建設を考えていたことだ。その適地が巴波川左岸であったのだろう。
 なお、皆川俊宗時代の一時期、川連城(栃木市大平町川連)を中心に、皆川城とも直結する永野川の舟運を利用した城下町の形成を目指していたたことが、永野川の水を引き入れた堀跡などから推測される。しかし、川連城周辺は深い湿地帯でもあり、夏秋には水害にも合いやすく、一方で冬季には永野川は水が枯れてしまう水無川なので舟運には不向きである。それに比べ、湧き水が豊富で一年中水量が豊かな巴波川に近い地域で、新たな城下町づくりを目指したものと考えられる。
 家康による江戸開府はまだ先のことだが、広照は、冬でも水量豊富な巴波川の舟運を利用して関東各地へ人や物の輸送が可能な水運を利用した新しい領地経営を描いていたものと推測される。この時代、皆川氏のような北関東の小領主にあっても水運を利用した物資の流通が都市の発展に直結すると考える時代になっていたのである。
 広照は、天正10年6月信長に謁見した際に、琵琶湖水運と直結する安土城と城下町が発展する姿をこの目で見てきたことだろう。巴波川にほど近く比較的小高い所に栃木城の築城を考えたことは容易に想像がつく。天正18年8月の家康の関東移封で江戸を本拠地に定めたことに、広照は歓喜したに違いない。

江田新説「1579年頃から築城がはじまる」

 栃木城の築城時期については、江田郁夫氏が新説を唱えている。2023年7月の講演会では、次の①の天正12年の広照書状を基に、「天正12年(1584年)以降」の説をとっていたが、本日2025年10月の講演では、それを否定はしないが、築城開始は、それ以前、「1579年頃」に遡るという見解を示された。

①1584年(天正12年)以降、北条氏勢力の急伸長にともない栃木城を築城し、その後宿河原の町場を栃木に移して整備した。

②粟志川(淡志川)城の廃城(1575年)に伴って、栃木城は1579年ごろに築城され、並行して円通寺を宿河原に移転し、栃木城の南側の防衛拠点とした。

 ①の「1579年説」の根拠は、円通寺が川連から現在地・城内町に移転したのが1579年であったという伝承を重視した考え方である。しかも、その背景には、小山氏が拠点としていた粟志川(淡志川=大宮)城が1573年に北条氏に攻め取られ、廃城になったことを強調しており、粟志川城の廃城を契機として、皆川氏は巴波川の左岸(東側)まで進出したということらしい。

 江田郁夫氏いわく、粟志川城は、1573年に北条氏が小山氏から攻め取った後は廃城になった可能性が高いとし、粟志川が廃城になったからこそ、広照は巴波川左岸の境界域に新しい城を築くことができる情勢となった、ということである。

 よって、現在の栃木市市街地発展の原点は、実は、広照の栃木城の築城前に、現在の栃木市城内町円通寺一帯に「宿河原村」があり、その成立は、室町中期以前にさかのぼる可能性がある、としたうえで、広照の栃木城は、境界防衛と町場の保護のため、新たに築城されたもの、としている。さらに、広照は、宿河原にあった町場のさらなる発展のために、栃木城の西側に町場を移転・整備し、それが現在の「蔵の街」へつながった、ということである。

江田新説を補強する材料

 宿河原(現栃木市城内町の南部地域一帯)には、天正7年(1579年)に皆川広照の命により円通寺がこの地に移転してくる以前から、長清寺が存在していたことがわかっている。(栃木郷土史136ページ、栃木市史通史編635ページ参照)さらに、現在栃木市万町にある近龍寺の由緒によると、近龍寺の前身にあたる称念寺が、応永28年(1421年)に宿河原に創建されたことが伝えられている。(近龍寺雑記 5ページ参照)さらに、栃木市城内町の県道沿いの交差点に「慈眼寺田宿聖観音」という案内板がある。かつて「田宿」という集落があったことを示している。近くには、「大宿」という小字名が残る「大宿公民館」もある。さらに、宿河原の北に位置する神明宿には、応永10年(1403年)創建の神明宮(移転前の神明宮)もある。(応永10年神明宮棟札:栃木市史通史編631ページ参照)

 これら宿河原、円通寺、大宿、田宿、神明宿の集落を結ぶと、あたかも栃木城を取り巻くような集落群が浮かび上がってくる。それに、現在推測しうる最も信頼性の高い復元図「栃木城の復元的縄張図」(小川英世氏作成:概ね赤線内の地域)を落としてみると、次の図のようになる。

栃木城跡(中心部分)及び周辺集落との関係図

 つまり、皆川広照が栃木城を築く以前から、称念寺や長清寺があった宿河原から神明宮のあった神明宿にかけて、複数の寺社が建立されるほどの集村がここに連なっていたということがわかる。このことは、1573年に北条氏が小山氏の支配する粟志川城を攻め取った後に、1579年頃から皆川廣照がこの地に進出し、「栃木城」築城を開始したという江田氏の主張を補強するものと考える。

栃木城と城下町

 では、栃木城は、どのくらいの規模の城であったのか、それを知る手がかりとして、故早乙女慶寿氏所蔵の古記録の中にあると言われ、栃木市史等でも取り上げている記述がある。(八百谷隆保著「近龍寺雑記」昭和45年35頁、栃木市史通史編636頁)そのあらましは次のとおり。

栃木古城平城  皆川山城守城跡
天正19年から築城が始まる
一、城の西入口より栃木町通りまで5丁40間(約622m)
一、城の惣回り510間(約923m)
一、本丸 東西83間(約150m) 南北73間(約132m)
一、二の丸として本丸の東に東丸、本丸の南に南丸があり
東丸 東西11間(約20m) 南北36間(約65m)
   南丸 東西28間(約50m) 南北73間(約132m)
一、蔵屋敷 東丸より北にあり 東西70間(約27m) 南北46間(約83m)
一、三の丸 東丸より東にあり 東西28間(約50m) 南北73間(約132m)
      東丸より南方の丸 東西52間(約94m) 南北間20間(約36m)
一、城の大手口表門は三の丸より入 裏門は東二の丸より入
一、城の惣堀の広さ9間(約16m)から10間(約18m)
慶長14年に破城

 栃木城について当時の図面は残っていないので推測するしかないが、明治19年栃木町の地図(小学館「地図で見る百年前の日本」1998年発行50頁)が参考になる。この地図を見ると、土塁に囲まれた栃木城跡の姿がはっきりと確認できる。

小学館「地図で見る百年前の日本」1998年発行

 古記録にある栃木城の曲輪構成から、城の東西幅と南北幅を推測すると概ね次のようになる。なお、1間=1.82mで換算した。

 東西幅が153間 約287m(=本丸:東西83間+蔵屋敷:東西70間)、         

 南北幅138間 約251m(=蔵屋敷:東西46間+東三の丸:72間+南三の丸:20間)

 東西幅については、古記録と明治19年地図でほぼ一致する。南北幅については古記録の推計幅は地図上確認できる南北距離よりもかなり短い。

 次に、栃木城の範囲を現代の航空写真に落としたものが栃木城址公園に掲示されているので示す。

 栃木城公園に掲示されている航空写真の黄色線は遺跡の範囲であって、栃木城の範囲を示すものではない。水色線は現在の水路を表しているが、城を囲む堀の名残りと思われる。したがって、概ね水色線の内側に栃木城の本丸・二の丸・三の丸に当たるものがあったと推定される。今なお残る堀跡は本丸と東二の丸との間の堀跡とみられる。小山方面からの街道は、城の東側水路(堀跡)に沿って北上し、三の丸の表門から栃木城内に入るようになっていた。街道をさらに北上すると、現在の東宮神社辺りから左折して城の北側を回って西に向かう構造になっている。その街道は、概ね航空写真の黄色線に当たる。その街道を軸として現在の長清寺北を流れる杢冷川(もくれいがわ)を北端とする地域が、栃木城築城時から形成されたと思われる城下の町人町(現在の本町周辺)であったと推定する。さらに西に向かうと栃木町を経て巴波川にかかる念仏橋(現幸来橋)から皆川方面につながっていた。

 次に、小川英世氏が作成した「栃木城の復元的縄張図」を紹介する。小川氏は栃木市主催「令和7年度カルチャースクール『栃木の城』講座」(2025年9月17日開催)の公演で、地籍図、国土地理院1947年撮影空中写真、地形図及び詳細な現地調査の結果として「栃木城の復元的縄張図」発表した。現在推測しうる最も信頼性の高い復元図と考えられるもので、おぼろげながら栃木城の姿を浮かび上がらせている。参考までに、小川氏が作成した地籍図も掲載する。

 

栃木町の形成

 では、栃木城からやや離れた巴波川左岸に位置する現在の大通り沿いの栃木町はどのように形成されたのであろうか。
 栃木城を中心とした城下町形成は、先ほど述べたとおり、杢冷川を北端として町人町を配置するとともに、西側は武家地を取り囲むように第一防衛ラインとして近龍寺、神明宮、定願寺などの寺社を配置したものと推定する。
 「栃木市史 通史編」(昭和63年発行)によれば、「栃木の町づくりをした皆川氏は、大通りに面してたんざく形に地割りをし、大通りの東側に西向きに神社や寺を配置した。」と記述している。しかし、栃木町の町人地(現・栃木市中心街大通り沿い)の短冊形の町割りは、皆川氏の時代のものであるとの確証はない。なぜなら、城下町の武家地の割り振りは城主が行うとしても、短冊形の町割りは城下町でなくとも門前町でも宿場町でも通常存在するからである。

 また、例幣使道の栃木町北端が枡形(街道を鍵の手に二回直角に折り曲げて外敵の進入を防ぐための構造)になっていることについて、皆川氏が栃木城下の町建設に当たって、敵軍の進行を妨げる防御施設である枡形虎(小)口(ますがたこぐち)を造らせた名残ではないかと推測する向きもある。しかし、街道の枡形は城下町特有の構造物ではない。江戸幕府は主要街道の宿場の出入口や要所に桝形を造営するように命じたとされ、近隣の例では富田宿の北端は枡形になっている。かつて中山道では全宿場に枡形があったとされており、栃木町北端の枡形を城下町の名残と判断するには根拠が乏しい。例幣使道に沿った栃木町の町割り形成時期は、城の北側の町人町(現在の杢冷川左岸・本町付近)よりも時期的には後のものではないかと推測される。

 栃木町の形成を考える場合、その前提として、皆川俊宗が栃木城の築城を構想した永禄6年(1563年)の頃と、広照が築城を開始した天正12年(1584年)とでは20年以上の開きがあり、さらに、北条氏滅亡後、家康が関東に国替えになった天正18年(1590年)以降とでは、北関東を取り巻く状況・時代背景が違うことに着目しなければなるまい。


 俊宗の時代の永禄6年は、上杉謙信が、関東一帯を攻略して小田原城を攻撃し、鎌倉で関東管領就任の儀式をした永禄3年から、永禄9年(1566年)2月に北条方の拠点臼井城を攻撃したが、3月に北条氏政の援軍が押し寄せ、撤退に追い込まれ大敗北を喫した年の間に当たる。謙信撤退後の永禄9年11月に皆川俊宗が北条氏に人質を差し出していることから、永禄9年11月には北条方になっていたことが確認できる。このころの皆川氏は、まさに上杉方と北条方の関東覇権争いの真っ只中にあった。俊宗は、皆川本領を守るための東の拠点として栃木城の防御機能を重視していたにちがいない。したがって、俊宗の構想による諸社寺の配置場所は主として城と武家屋敷を防御することに主眼がおかれ、町人町としては城の北側(現在の杢冷川左岸・本町付近)を想定していたにすぎず、後の例幣使道を軸とした町人地の地域については防御構想には含まれていなかったのではないだろうか。

 広照の時代になって、築城は天正12年には開始され、城下町ともいえる町人町は、天正14年ころからは現在の杢冷川左岸・本町付近に整備していったと推定される。その後、諸社寺の西側、巴波川左岸の町づくりに乗り出そうとするのは、おそらく小田原合戦の後、徳川家康の家臣となり皆川本領を安堵されることになった天正18年(1590年)以降のことと思われる。
 皆川氏の主家となった徳川氏は、天正18年7月に秀吉から関東への国替えが告げられ、8月に江戸へ入城する。家康は、関東平野の中心に位置する江戸は海に面しているうえに関東に幾筋も流れる川の終着点でもあり、物資を運搬するのにこれほど都合がよい土地はなかったと考えたと言われている。したがって、家康が江戸に入り、江戸と直結した巴波川の舟運の利用価値が大幅に向上したことが契機となって、広照は、諸社寺の外側であるが、舟運の拠点ともなる巴波川の東岸に当たる土地に本格的な町人地を形成しようと考えたものと推定する。

 しかし、残念ながら皆川氏による城下町栃木の建設は、天正12年(1584年)の栃木城築城開始以来25年、天正18年(1590年)の家康の関東移封以降13年にして重大な転機が訪れる。

 皆川氏当主・広照は、慶長8年(1603年)に家康の六男松平忠輝が信濃国川中島藩14万石に封じられたことに伴い、その御附家老として信濃国飯山藩4万石に封じられることになったのである。栃木城には城代が置かれたものの、城下町づくりは中断せざるをえない状況になったことだろう。さらに、慶長14年(1609年)には皆川氏が改易されてしまう。それに伴い栃木城も破却され、栃木における皆川氏の城下町づくりは道半ばで潰える。

譜代大名皆川氏の盛衰

 天正18年(1890年)小田原合戦後、皆川広照は、家康の家臣になることを許され、家康の領国となった皆川領をあらためて家康から与えられ、実質的には本領支配を維持することになる。 

 その後、豊臣政権から徳川政権に変わる時代の転換期にあって、皆川氏はどのように存続を果たしたのだろうか。
 豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月、家康は反抗的な上杉景勝を征討する目的で大阪城を出発し東国に向かう。広照と息子隆庸は、徳川方の拠点となる大田原城へ派遣される。大田原城は上杉領白河口に対する徳川方の重要拠点であったからだ。つづいて、広照父子は鍋掛村(那須塩原市)に移り駐屯する。
 ところが、石田三成の挙兵が家康陣営にもたらされた。家康は、7月25日に小山にて評定を開き、上洛して西軍と雌雄を決することになった。
 8月24日に宇都宮にいた徳川秀忠は、3万8千の兵を率いて出陣し中山道を進むことになった。このとき、広照は、上杉景勝の南下に備え鍋掛にとどまったが、隆庸は秀忠に付き従ったという。皆川氏のその後のことを考えれば、おそらく武功をあげるためには秀忠軍に付き従ったほうがよいとの判断がなされたのだろう。しかし、中山道を進んだ秀忠軍は天下分け目の関ヶ原の合戦に遅参するという失態を演ずるが、関ヶ原の合戦は家康方の勝利に終わる。

 関ヶ原の合戦当時、結城氏が支配していた西方領の実相寺には、慶長5年9月6日付けで寺内境内での狼藉を禁じた定書(結城家黒印状)(西方城跡総合調査報告書 文献資料31)が残っており、上方に向かう秀忠配下の軍勢の一部が実相寺の門前を通過していったことをうかがわせる文書である。想像の範囲ではあるが、このとき西方を経由して行軍したのは皆川隆庸の率いる皆川軍ではなかったろうか。皆川隆庸(みながわ たかつね)は、秀忠軍に従って東山道を上る際に、秀忠軍と別れて西方を経由して皆川本領に立ち寄った可能性も考えられる。

 その後、先述のとおり、家康の六男松平忠輝が慶長8年(1603年)に信濃国川中島藩14万石に封じられたとき、広照はその御附家老として信濃国飯山藩4万石に封じられた。この時点で、広照は、本領である皆川領3万5千石と合わせて7万5千石の譜代大名となる。この時が皆川氏の最盛期であったのだが、広照にとっては、生まれ育った本領を離れることになる。栃木における城下町の建設は道半ばで終了せざるをえなかった。

 慶長14年(1609年)、忠輝と広照や古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴える事態になった。忠輝側の弁明もあり、家康からは逆に家老に不適格であるとされて皆川氏は改易されてしまう。

 その後、皆川氏は、広照、隆庸父子の大阪冬の陣、夏の陣での軍功もあり、元和9年(1623年)にようやく復権を果たす。広照は三代将軍徳川家光から常陸府中(茨城県石岡市)に1万石、隆庸には、常陸国行方に5千石を賜る。
 広照は、復権を果たした4年後の寛永4年(1627年)12月22日、享年80歳で波乱の生涯を閉じる。
 隆庸は広照の跡を継ぎ常陸府中藩主になるが、正保2年(1645年)に65歳で没した。隆庸の子成郷は22歳で急逝し、子がなかったため常陸府中藩は断絶することになる。これに代わって成郷の弟秀隆・成之らの系統が徳川氏の旗本として存続する。

長沼秀光が築いたとされる「古城」について

 栃木市が令和6年(2024年)に作成した小学生向きの学習パンフ「地域に眠る歴史遺産を知ろう! いいね栃木城」には次のような文言が書かれている。

栃木城には、現在の城跡以前に築かれた「古城」がありました。「古城」は1394(応永1)年に、長沼紀伊守秀光が栃木郷(城内町)に城(館)を築いたのが始りといわれています。

 栃木城址の「説明板」にも同様の記述がある。今となっては「誤記」の多い「栃木市史」には、「伝承には応永元年(1394)皆川紀伊守秀光が築城したとあるが、実際は天正19年(1591年)皆川広照が築城したものと思われる。」(資料編 761頁)とある。「栃木市史」がよく引用している軍記物の「皆川正中録」には、「応永元年(1394)、秀光は初めて皆川に城を築き、・・・(中略)・・永享年(1437年)には栃木にも城を築いた。」(前掲皆川正中録15頁)とある。では、何を根拠に、栃木市は秀光の「古城」伝承を書いているのか。岸慶蔵氏は著書「私見 皆川氏・長沼氏と栃木郷」34頁で、「東国擾乱記」に「紀伊守秀光、栃木郷に城を築きて住す。時は応永元年(1394)なり」と書かれているとしているが、「東国擾乱記」そのものは、江戸時代に書かれた軍記物であり、史料としての信頼性はない。

 さらに言うと、秀光という人物は架空の存在ではないか、との指摘もある。(近藤兼利著「皆川広照 伝」小松邦義 復刻版18頁)

 秀光が活躍していたころの文書である応永33年(1426年)比定の「6月2日付け足利持氏書状」(「第2章 長沼氏から皆川氏 2-1 下野国から会津南山へ」参照)や永享11年(1439年)発給と比定されている「2月11日付け安房守(関東管領上杉憲実)宛て篠川公方足利満直書案」など同時代の一次史料である皆川文書からは、全く秀光の存在は見えない。     

 ちなみに、皆川氏の菩提寺・金剛寺の由緒には、永享元年(1429年)に皆川の地に移封した長沼秀宗(由緒では、永享10年(1438年) 33歳で腰越討死とされている)の母(1457年没)が創建したと伝えられているが、だれの室であったかは不明だ。

 批判を恐れず敢えて推測すれば、皆川文書でも実在が確認できる淡路守系長沼氏・憲秀から次郎系長沼氏の秀宗への惣領権の移行を正当化するために「長沼秀光」という架空人物を登場させた可能性もある。

 今後、さらなる調査・研究が必要だろう。

 

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