第4章 北条氏との最終決戦と小田原合戦
天正13年太平山の合戦から天正18年小田原合戦までを探る
4-1 天正13年太平山の合戦と天正14年北条氏への帰属
天正年間は、皆川氏にとって苦難の時代であった。特に、天正13年(1585年)の太平山の合戦とそれに続く天正14年(1586年)北条氏への帰属は、皆川氏の命運を左右する重大事件であったことは間違いない。時の皆川氏当主広照はこの苦難をどのように乗り越えていったのか探る.
天正13年太平山の合戦
北条氏への帰属
天正13年太平山の合戦

中央にそびえる高い山が太平山 その手前下の尾根筋が激戦があったとされる草鞍山(皆川城本丸跡から撮影)
戦国時代、皆川氏と北条氏とは境目を接する大名・国衆の運命として、時には同盟を組んだりしながらも、数多くの合戦を繰りひろげてきた。そのなかで最も激しい戦闘が行われたのは、天正13年の太平山を主戦場とした合戦である。本書では、以下、この合戦を「太平山の合戦」と呼ぶことにする。
この戦いについては、一次史料では定かなことは確認できない。しかし、「寛政重修諸家譜」皆川広照の項は、その様子を次のように淡々と記している。
【寛政重修諸家譜】
氏政兵を挙て太平山の砦を襲ふ。広照術をつくし苦戦すといへども、寡をもつて衆に敵しがたく、奇計をめぐらし必死の戦をなす。
おそらく北条氏の大軍は太平山神社を含む太平山一帯を攻めたものと推定する。
この時の、北条氏による皆川攻めは、天正13年9月4日付け結城晴朝が上杉景勝に報じた書状写(歴代古案:藤岡町史資料編古代・中世 資料番号230 233頁)によると、「初秋南衆出勢し、皆川領に張陣」とあり、初秋=旧暦7月に、南衆=北条勢が出陣し、皆川領に陣を置いたことが記されている。
さらに、8月15日付け小曽戸右京亮(現栃木市鍋山の領主)宛て皆川広照書状(島津文書:藤岡町史資料編古代・中世資料番号228 232頁)には、加勢してくれた小曽戸氏への御礼とともに、「其以後、佐野表在陣」(その後、佐野方面に陣を移した)とあることから、北条軍は、7月に皆川を攻め8月15日までには佐野に陣を移したと考えられる。この合戦により、太平山神社はもとより、太平山頂付近にあった砦(太平山城)は北条氏の攻撃により焼け落ちたとされている。
では、天正13年太平山の合戦は実際にはどのようなものだったのか。
この合戦の真実を知る手掛かりが埼玉県東秩父村の日蓮宗浄蓮寺にある。
浄蓮寺とは、天正年間に松山城主であり北条氏配下の上田氏ゆかりの寺で、寺の伝承によると、天正13年(1585年)に下野皆川城攻めに出陣した上田憲定が太平山神社から持ち帰り奉納したと伝わる。(日蓮宗妙栄山淨蓮寺ホームページ)
鰐口は、直径38センチの青銅製で、次のような銘文が刻まれている。
【浄蓮寺鰐口銘】
奉寄進太平山御宝前 長沼弾正中弼成勝
当別当代永顕坊昌春 敬白 天文八年己亥九月吉日
(埼玉県東秩父村文化財一覧)
これによると、広照の祖父にあたる長沼弾正中弼成勝(しげかつ)が天文8年(1539年)に太平山神社に奉納した鰐口であることがわかる。しかも、鰐口の真んなか下に鉄砲玉の貫通痕らしき穴(弾痕)があり、当時の戦いがいかに熾烈なものであったかを物語るもので、東秩父村文化財に指定されている。おそらく、天正13年に北条氏から下野国皆川城攻めの出陣命令があり、一族をあげて出陣し太平山での戦闘に加わったものと推定する。鰐口は、そのときの戦利品として持ち帰ったものだろう。

【浄蓮寺の鰐口】(日蓮宗妙栄山淨蓮寺ホームページから)
太平山で合戦があった年については諸説ある。「皆川正中録」では天正12年7月と記されているが、「寛政重修諸家譜」広照の項では天正14年となっている。「皆川正中録」は明らかに天正12年の沼尻の合戦と混乱した記述となっており信頼性はない。また、太平山の合戦を天正14年とするならば、(天正13年比定)9月5日付け上杉景勝宛て広照書状(上杉家文書:藤岡町史資料編資料番号231号 234頁)の「氏直愚領へ張陣、然りといえども、防戦堅固につきて、佐野表へ退散し候」との記述や、皆川氏の北条氏への帰属「皆川山城守南へ一和」を伝える(天正14年比定)5月19日付け大掾清幹書状(芹澤文書:藤岡町史資料編古代中世資料番号246 247頁)の内容と整合性がとれない。したがって、この合戦は天正12年7月の沼尻の合戦終結以後、天正14年5月の皆川氏の北条氏への帰属までの間、すなわち天正13年7月から8月の間と比定すべきものと考える。
なお、「皆川御譜代討死面々家名」(藤岡町史資料編古代・中世 286頁)や荒川哲男氏復刻「皆川歴代着当討死帳」(原本著者 皆川又太郎 口語訳者 小松義邦「口語 皆川歴代記」令和6年11月22日発行 付属資料)によると、「草倉討死」が天正13年9月中旬ころに集中していることから、9月に草倉山を中心に大規模な戦闘が行われた可能性も否定できない。しかし、当時の暦では天正13年は、太陰太陽暦と季節のずれを修正するため閏8月を挿入した年である。にもかかわらず、両資料には8月と9月の間の閏8月の記載がない。これをどう解釈すべきか。資料の信頼性にもかかわる問題だが、東国は時として閏月を挿入する時期が異なっていたこともあるといわれている。両資料に見える「9月」は、「閏8月」と解釈することも可能かもしれない。そうだとすると、北条軍は7月に皆川付近に着陣したが、実際の戦闘は8月から閏8月中旬ころまで行われていたとも考えられる。さらなる調査・研究が必要であろう。
天正13年7月・8月に皆川氏が北条氏の大平山への襲撃に耐え奮戦しているころ、皆川氏の後ろ盾となり、「関東惣無事」の実行者であるはずの徳川家康はどうしていたのだろう。
実は、このとき家康は、徳川・北条の盟約に背く真田氏の信州上田城攻めを決行しているところであった。この時期、おそらく家康は同盟者である北条と皆川の両者の戦いは避けたかったにちがいない。史料は確認されていないが、家康は、広照に対して北条との合戦を避けるよう指示していたと考える。それに対し、広照は「関東惣無事の儀」の実現を目指す家康の意に反し、やむをえず北条氏との合戦に及んだことを、後に使者・中川市助等を通じて家康に陳謝している(寛政重修諸家譜)。
実際、家康は、天正13年閏8月2日の合戦で真田氏に大敗することになるわけだが、合戦後に、上田城攻めの折り北条氏が加勢したことに対する礼状(11月28日付北条氏規宛て家康書状)を発給しており、真田攻めに北条氏の加勢を求めざるをえない苦しい状況であったことがわかる。
太平山の合戦は、それ以後の歴史をみれば、下野国と上野国を境に、北条氏の勢力圏と反北条勢力圏が拮抗している状況から、この合戦を契機に、北関東における北条氏対反北条氏諸将連合の勢力図が一気に北条有利の情勢に傾いた合戦であったと筆者は考えている。
なぜなら、その後も北条氏による下野国反北条勢力諸将への圧力はとどまることはなく、天正13年12月には壬生義雄を北条氏に帰属させ、一気に宇都宮までの侵攻が可能な状況になり、12月15日には宇都宮大明神(現二荒山神社)を焼き払っている。翌天正14年1月1日には佐野宗綱が北条方の長尾顕長配下に討たれるという事態にもなった。
北条氏への帰属
天正14年は、北関東における戦国時代の終焉に向けた転機となる重要な年であった。
なぜなら、北条氏と反北条勢力との境目に位置していた佐野氏及び皆川氏がともに北条勢力に組み込まれた年だからである。
天正14年発給と比定されている次の史料を見てみよう。
【天正14年比定5月19日付け大掾清幹書状】(芹沢文書)
読み下し:
(前略)西表の様子、皆川山城守南へ一和。この上は結・宮口へと申し候。南陣は、富田の近所に有るの由申し来たり候。(後略)
「皆川山城守南へ一和」とは、皆川広照が北条氏と和睦し北条氏に帰属したという意味である。その結果、北条氏の次なる標的は、結城氏と宇都宮氏であり、北条氏は現在、富田(現栃木市大平町)に在ることを大掾清幹(だいじょう きよもと)は伝えている。
天正14年5月の「皆川氏の北条氏への帰属」の背景には、北の隣国である壬生氏及び南方の隣国である佐野氏の動向が大きかったものと考える。
壬生氏は、天正13年12月には北条氏に帰属したことが明らかで、佐野氏は、天正14年1月1日に反北条の急先鋒であった当主宗綱が長尾顕長配下に討たれたことに伴い、1年を経ずして北条氏忠が継承することになった。
天正14年にも行われた北条氏直の皆川攻め及び佐野攻めについては、「政治的圧力の意味が込められていた」(斎藤慎一著「戦国時代の終焉- 「北条の夢」と秀吉の天下統一」参照)と推察され、この皆川攻め・佐野攻めは、北条方への帰属を促す最後通牒的なデモンストレーションであったと考える。
さらに、皆川氏の北条氏帰属の背景には、北条氏と強固な同盟関係にあった家康の意向があったことは容易に想像がつく。
家康は天正14年のこの時期、自身の朝日姫(秀吉の妹)の輿入れ(5月14日)により秀吉との関係を強固にしたうえで、反北条勢力の北関東諸将(塩谷氏、白河氏、佐竹氏他)に対して秀吉政権の意向(①佐野家相続に異議の無いこと、②家康を赦免したこと、③関東における領地紛争を秀吉政権主導で進めること)を佐野氏の旧臣の山上道牛を使って5月25日付け朱印状を伝達させた。
家康は、形式上秀吉政権の意向に従いながら、養子相続・婚姻関係を巧みに利用して北条氏の下野国における一定程度の領地拡大を反北条勢力に認知させ、併せて、関東における領地紛争の停止を実現させる工作を成しえる状況を作り出そうとしていたものと考える。
皆川氏の北条氏への帰属に当たって、北条氏のような戦国大名の養女が、皆川氏のような地方の一国衆に養女を嫁すということは、戦国時代の従属関係を取り結ぶ作法(起請文の交換、従属する国衆側が証人(人質)を提出する)からすると極めて異例なことと思われる。
北条・皆川の関係と同様に、主従関係の主となる側の大名から国衆側に身内を「証人」として差し出した例としては、武田信玄に奪われた奥三河の長篠城を攻略するために家康が仕掛けた調略が知られる。奥三河の有力国衆であった奥平貞能・信昌を武田方から再び徳川方に寝返らせるために、織田信長の提案で家康の長女亀姫を信昌に輿入れさせたことは周知のとおりである。奥平氏を家康方に寝返らせることは、家康にとってそれだけの価値のあることだった。
北条氏にとって皆川氏の存在は、奥三河奪還に向けて家康が調略した奥平氏と同様に、下野国における軍事作戦を遂行するに当たって、戦略上重要な国衆として位置づけられていたということだろう。
一方の皆川氏側は、皆川領を取り巻く壬生氏、佐野氏が既に北条氏に従属している状況、いわば四面楚歌の状況の中、より有利な条件で皆川氏を生き残らせる方策に腐心していたに違いない。
北条氏の意と皆川広照の心中を察した家康が、自分の主導のもとで、奥平氏と同様の待遇で皆川氏の北条氏へ帰属を実現させたのである。北条氏との姻戚関係により、皆川氏はただの国衆ではなく、北条氏の親類衆に列せられる立場になったことになる。
ちなみに、国衆とはどのような領主であったか、その定義については諸説あるが、その一例として丸島和洋が著書「戦国大名の外交」11ページで、次のように述べており参考として掲げる。
この国衆という権力は、戦国大名に従属しているが、あくまで「外様」であり、家臣として「家中」に組み込まれてはいない。軍事的に大名に従属しているだけの存在である。これを専門用語では、戦国大名の「軍事的安全保障体制」への組み込みと呼ばれている。つまり国衆とは、戦争に際して戦国大名の動員(軍役)に応じる代わりに、戦国大名から軍事的保護を受ける存在なのである。したがって、大名が国衆の領国支配に口を挟むことは基本的にない。このように一定度の自立性を有した国衆という存在は、大名の譜代家臣とは明確に区別する必要がある。
皆川氏の北条氏への帰属は、家康にとってどのような意味があったであろうか。家康は、天正9年(一次史料で確認できる初出)以来の通好同盟関係にあった皆川氏と、天正10年若神子対陣を経て同盟関係を結んだ北条氏との間を仲介(仲裁)することにより、徳川の同盟者である両雄による消耗戦を避けるとともに、「関東惣無事」の実行者として、当時秀吉に近いとされた北関東の諸将にも家康の権威・優位性を示す機会となったものと考える。
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