第3章 徳川家康と皆川広照

日本史の大転換のなかで広照はどのように行動したかを探る

3-1 家康・信長との出会い

 北関東の小領主にすぎなかった皆川氏が、天正9年(1581年)10月、家臣の関口石見守を安土城に派遣し、中央権力となりつつある織田信長との謁見を果たした。その影に徳川家康の存在がある。では、広照は家康・信長との関係をどのようにして築いていったのか、これまであまり触れられなかった御鷹師の存在に着目して検討を行う。

  広照家臣の信長謁見
御鷹師の外交工作
時代の分岐点

広照家臣の信長謁見

 俊宗の死から8年後の天正9年(1581年)10月、時の皆川氏当主広照(死亡年から逆算して34歳)は、家臣関口石見守を安土に派遣した。関口石見守は、中央権力を掌握しつつある織田信長に謁見し、馬の献上を果たす。
 この時、信長への取次を務めた信長重臣堀秀政の覚書が残っている。
 それによると、広照家臣が安土城の安土城訪問に先だって、伯父の智積院玄宥を「去年わざとよびくだし、只今又さし上げ申し候」とある。
 広照は、去年(天正8年)のうちに伯父の智積院玄宥を紀伊根来寺から皆川荘に下向させ、今回、信長への献上品(馬)とともに、家臣関口石見守の案内役として玄宥を同道させたということになる。つまり、広照の信長への貢馬は2年がかりで実現したものであり、天正8年の時点から構想されていたことだった。 (江田郁夫氏著「北関東の大名・国衆と織田政権」237頁)

京都智積院 玄宥座像

 広照の使者関口石見守は、どのようなルートを通って安土への往復を果たしたのか。
 天正8年(1580年)3月の時点で北条氏政は信長に臣従しており、関口石見守は安土城訪問の後、帰還途中で浜松城にて家康と面会し、北条氏領を通って皆川荘まで帰ったことが史料で確認できる。
 関口石見守が安土を訪問したときには、北条氏は、これまでの古河公方を形式上上位権力と仰ぐ「古河公方ー管領体制」から信長政権における分国大名へと政策転換を果たしていた。天正8年の時点で、古河公方を上位権力として崇拝する関東の体制は、名実ともに終焉を迎えていたのだ。

 では、なぜ、関口石見守は安土城訪問の後、帰還途中で家康に面会したのか、それをひも解くには「寛政重修諸家譜」の記述が参考になる。
 「寛政重修諸家譜」によると、天正8年に皆川氏のところに家康の使者(中川市助忠保)が来て家康の上意を伝達され、「これより広照御麾下に属す」(広照は家康の指揮下に入る。臣従した。)と記されている。
 「寛政重修諸家譜」はもとより二次史料で、その編纂経緯から、一般には東照宮=家康をはじめとする徳川将軍家に対し忠誠を尽くした先祖の姿を、自身に都合の良いように多少デフォルメして報告がなされている可能性もあることから、他の裏付け史料と重ね合わせて読む必要がある。
 そう考えた場合、家康と広照との接点について別の史料による裏付けが必要になる。
 
 天正9年(1581年)11月12日付け蜷川山城守(皆川広照)宛て家康書状によると、家康は、広照が信長に馬を献上したことが大成功であったことを「我々まで大慶に候」と大いに喜んでいる。(「皆川文書」徳川家康書状 栃木市史資料編300号)
 この書状は、広照が信長から朱印状を受領したことを家康に報告に行った関口石見守が、帰国の際持ち帰った家康の返信と推定されている。書状の宛名は「蜷川山城守」となっており、徳川家中では皆川の名はまだ浸透していなかったらしい。

 さらに、天正10年(1582年)6月本能寺の変前後に広照と行動を共にする下総の水谷正村も、信長に使節を送ったことが「寛政重修諸家譜」に記されている。ちなみに、水谷正村は結城家家臣ではあるが、家督を弟に譲った後は出家して蟠龍斎(はんりゅうさい)と名乗り独自の動きをする人物。広照の伯父(広照母と兄妹)でもあるとされている。
 それによると、家康の「仰せによりて織田右府に使節をささぐ」とあり、水谷正村が信長へ家臣を派遣したのは家康の「仰せ」(指示)によるものとなっている。

 こうした経過を鑑みると、広照の信長への家臣派遣も、上方の情勢を知る玄宥の道案内があったとしても、水谷正村と同様に家康からの指示を受けての行動と考えるのが自然である。つまり、天正8年に皆川に派遣された中川市助忠保により、家康の意向(信長への使節派遣)が伝えられた可能性が高い。

 では、なぜ広照は徳川氏との関係を構築しようとしたのか。その理由については、台頭著しい中央権力の織田・徳川方寄りの動きをすることで北条氏の侵攻に備えた、とするのが一般的な見解である。(荒川善夫氏著「戦国期北関東の地域権力」岩田書院 299頁)しかし、それだけではなく、北からの佐竹氏の圧力にも対抗する意味があったことは間違いない。
 なぜなら、天正7年(1579年)7月24日付け佐野氏に宛てた佐竹氏書状には「皆川に向けて調儀逼塞の処」(皆川を攻めるところである)との記述があり、天正7年当時の皆川氏は、反北条勢力の盟主である佐竹氏からも攻撃を受ける立場にもあったということだ。つまり、皆川氏は、南からは北条氏、北からは佐竹氏の攻撃を受ける立場にあったといえる。
 したがって、皆川氏は、関東における北条対反北条の争いの境目にあって、北条氏と佐竹氏のどちらの勢力をも超越する上位権力を求めて、中央権力となりつつある信長・家康に接近したと考えるべきであろう。

御鷹師の外交工作

 では、一方の家康は、広照との関係をどのように考え、どのように行動していたのだろうか。
 この時期、家康は北関東や東北の諸将と関係を持とうとしていたことはわかっている。
 これに関し、興味深い研究があるの紹介する。
 原田正記氏の研究によると、天下統一をめざしていた織田政権は、全国の領主の領土(分国)の象徴として鷹を位置づけ、全国に鷹師(鷹匠衆の頭)を派遣し、諸氏と積極的な外交を進めており、特に天正7年から9年にかけて全国から多数鷹の進上があった、と指摘している。(原田正記著「織田権力の到達ー天正10年「上様御鷹之儀」をめぐってー」参照)
 この鷹師を使った外交工作には、徳川氏が大きな役割を果たしており、天正5年と7年に家康は奥羽へ鷹師・中川市助を派遣し、自ら鷹所望を行うとともに、奥羽までの道筋の諸氏に対しても、鷹の所望や信長への鷹や馬の進上を進めるなど、東国に対する織田政権の取次役としての地位を確立しようとしたとされている。
 
 実際の史料として、天正7年に結城晴朝や常陸下館の水谷勝俊宛て家康書状で、鷹師・中川市助を派遣するに当たって通行の便宜を依頼していることが確認できる。さらに「寛政重修諸家譜」の伊達輝宗(政宗の父)の項には、「御鷹師中川市助を下さるるのときも御書をたまふ」とあり、伊達氏にも家康の使いとして鷹師・中川市助が遣わされたことが確認できる。
 家康から皆川氏への鷹師派遣の一次史料は現在のところ確認されていないが、「寛政重修諸家譜」の皆川広照の項には、「天正8年東照宮(家康)より中川市助忠保下され」との記述がある。皆川氏は、鷹師・中川市助を通じて家康との関係を形成しているたことが推定できる。
 陸奥に派遣された中川市助が徳川領に帰国するに当たって、広照は通行の便宜を図ったのではないかとも考えられる。(黒田基樹氏著「小田原合戦と北条氏」10頁参照)
 なぜなら、広照は、水谷勝俊の兄・水谷正村の甥(広照の母は正村の妹)に当たることから、水谷正村を通じて中川市助の通行便宜を依頼された可能性が強い。

 では、水谷正村はなぜ広照に通行便宜を依頼したのであろうか。
 推測になるが、天正7年(1579年)9月の徳川・北条の同盟成立までは、徳川の使者が北条領を通行するのは困難だったと思われる。水谷氏は結城氏配下であり、主家である結城氏は天正7年7月に佐竹義重とともに北条方の祇園城と榎本城付近まで攻め込んでいることから反北条勢力であったことは間違いない。したがって、中川市助の北条領内通過の案内は非常に困難だったと思われる。それに対し、この時期の皆川氏は北条方であり、北条領通行の便宜を図ることは比較的容易なことであったことが想像できる。
 以上を総括すると、家康は、まだ北条氏との同盟関係が成立していない段階にあって、積極的に東国諸士へ鷹師・中川市助を派遣し外交工作をしていた。家康のこうした外交工作は、かねてから中央の上位権力に近づきたいと考えていた皆川・水谷両氏の思惑と見事に合致したのだろう。
 
 その後、皆川広照・水谷正村両人は、織田信長との謁見(水谷正村は謁見に間に合わなかった)、天正壬午の乱では家康に従い甲斐新府城への参陣を果たし、さらに小田原合戦後は、皆川氏は家康に家臣として取り立てられ皆川本領での存続を果たすことになる。一方の水谷氏も、主家に当る結城氏が家康次男で秀吉の養子であった秀康が関ヶ原合戦の後越前に転封するに当たって、本領を維持し下館藩(3万2000石)の独立大名となった。

 余談になるが、現存12天守の一つでもあり、雲海で有名な備中松山城(重要文化財)は、水谷正村の甥に当たる水谷勝隆が、寛永19年(1642年)に5万石で入封した後、第2代勝宗が天和元年(1681年)から 天和3年(1683年)にかけて天守建造など大修築を行い現在の姿となっているものである。本能寺の変の後、皆川広照とともに家康に従い甲斐新府城へ参陣した水谷正村の足跡が、備中松山城天守閣の建造につながっていると思うと、大変感慨深い。

備中松山城 公益社団法人岡山県観光連盟ホームページから

時代の分岐点

 広照・正村が信長・家康に接近していたころ、下野の最有力領主である宇都宮氏は信長政権にどう対応していたのだろうか。
 信長公記によると、宇都宮氏は家臣であり職人・商人でもある「貞林」が天正8年3月に信長に馬を進上するなど、織田政権との結び付きをもつ動きはあったものの、そこには家康の仲介を確認することはできない。宇都宮氏は基本的には佐竹氏と行動を共にし反北条の秀吉に接近し、小田原合戦後も豊臣大名として存続できたが、関ヶ原の戦いの前、慶長2年(1597年)に、中央権力者である秀吉の怒りを買って改易の運命をたどる。

 まさに、東国諸士の天正7年・8年の対応こそが、大名・国人領主が一定の自律性を持っていた中世から、強力な中央権力が存在する近世への時代の大転換をうまく乗り切れるかどうかのターニングポイント(分岐点)だったのではないだろうか。

 余談になるが、信長に馬を献上した宇都宮の「貞林」は、関ヶ原の合戦後、富田・栃木・壬生を通り宇都宮を訪れた前田慶次の道中日記にも「庭林」の名で登場しており、大変興味深い。
 慶次道中日記によると、慶次は宇都宮に11月10日に到着している。その時の記述には「宇都宮に着き、予が旧友庭林と云うものあり、彼宅にて酒くれて、ふろたかす」とある。慶次が旧友庭林の屋敷に宿泊し、酒を酌み交わし、旧交を温めている様子が記されている。
 慶次は、宇都宮への道中、冨田・栃木を通過したのだが、馬での移動距離しか記されていないのが残念である。(「うつのみや歴史民族紀行第14回 前田慶次と宇都宮の商人庭林」 栃木県立博物館 学芸員 飯塚 真史 参照)

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