1-3 経済基盤としての小山荘と中泉荘 杤木
小山氏の経済基盤となる本拠地・小山荘はどのような経過をたどって小山氏の支配する荘園として成立していったのかを考えてみたい。あわせて、「下野国中泉庄 杤木 早乙目屋敷」と記されている小山氏当主の書状があり、現在のところ一次史料として確認できる「杤木=栃木」という地名の初出と考えられることから、「栃木」という地名の源流を探る。
小山荘の成立
中泉荘と小山氏
栃木の名称の初出
小山荘の成立
小山氏のような東国武士団が数々の合戦に勝利するためには、戦闘技術はもちろん必要だが、それにも増して、戦いに必要な武具・馬の調達、大勢の兵動員を可能とする経済基盤を持っていることが必要条件であることは先に述べたとおりである。
そこで、小山氏の経済基盤となる本拠地・小山荘はどのような経過をたどって小山氏の支配する荘園として成立していったのかを考えてみたい。
史料によれば、小山氏の本拠地、寒河御厨=小山荘は、永万2年(1166年)後白河院の院庁下文により、伊勢の二宮(内宮・外宮)に寄進されたことが確認できる。
小山荘の後白河院への寄進は、それ以前に行われていたはずなので、後白河院が下野を知行国としていた永歴2年(1161年)頃から、永万2年(1166年)までの間に寄進が行われたものと推測される。つまり、小山政光は、自ら開発した土地を院に寄進し、院の権限のもとで小山荘の立荘が認められたと考えられる。(松本一夫著「小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史」20ページ参照)
まさに小山荘の成立は、薗部郷と戸矢子郷が東大寺の便補保となった時期(永万元年1165年)と同時期の出来事であり、このことは単なる偶然ではない。
下野国衙で有力な在庁官人であった小山氏は、薗部郷・戸矢子郷の権益をめぐって秀郷流藤原氏一族の足利氏と争う一方で、自らの小山荘の立荘のため、後白河院との交渉を行っていたことになる。
ここで、荘園の成り立ちに関連し、研究者の間では既に一般的な歴史用語となっている「領域型荘園」について説明したい。
1970年代までの歴史教科書などの「荘園」についての説明は、地方豪族(在地領主)が開発や獲得した自己の領地支配を他に侵略されないで確実なものとするために、権威ある貴族や寺社権門へ寄進したとされ、それを「寄進地系荘園」と名付けて、在地領主側の理由を軸として説明がなされてきた。
小山氏の場合も、自らの権益を維持していくためには、院の意向に従わざるをえず、むしろその保護下にはいることが必要であった、と従来の説明がなされていることが多い。(松本一夫氏著「小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史」戎光祥出版 2015年)
しかし、荘園に関する歴史研究の進展により、院政期においては院の権力及びそれに連なる院の近臣・中下級貴族や都と地方を行き来して活動する中央の軍事貴族の動向など、権力側から在地領主への働きかけを抜きにして中世荘園の形成について説明することはできないことがわかっている。
ちなみに、高等学校の日本史の教科書では「寄進地系荘園」という用語が長らく使用されていたこともあったが、「寄進地系荘園」の用語は荘園成立の実態を表していないことから、近年は「領域型荘園」という用語に代わっている。
伊藤俊一氏は、著書「荘園」(中公新書 2021年)のなかで、「平安時代末期には地方政府の役人を務めつつ大規模な農地開発を請け負った在地領主が成長し、上皇が専制権力を握った院政と結びついて、領域内の支配権が一括して与えられる領域型荘園が設置され、荘園は中世社会の基幹的な制度となった。」と述べている。
すなわち「領域型荘園」とは、院政期に生まれた荘園で、「山野も含めた領域内の開発・経営を一括して在地領主に任せ、自由に手腕を発揮させる荘園」(伊藤俊一著「荘園」84ページ)である。そして在地領主を院や摂関家に仲介し、荘園設立の実務を行ったのは、院近臣や后妃の女房、摂関家の家司といった中央の貴族だった。(伊藤俊一著「荘園」90ページ)
つまり、小山政光は自らの開発した土地小山荘を院に寄進した背景には、後白河院の近臣を自らの知行国である下野国の国司に任命させ、その国司を通じて院への寄進の圧力がかかったと考えられる。
こうした国衙権力をバックにもつ地方軍事貴族の有力者である小山氏は、一族子弟や近隣農民を組織して農地開発を行い、後白河院の意向により院に寄進するという行為になった。
そして、寄進を受けた院政権力側は、小山氏の開発領地のみならず国衙領や周辺山野や含めた大規模な地域を小山荘(伊勢二宮寄進後は寒川御厨)として立荘する命を出すことになる。これにより、院が荘園の本家となり莫大な年貢を得、小山氏はその荘園の荘官として広大な小山荘の権益を得るという構造ができあがるのである。このように、院をはじめ女院・摂関家などが立荘する荘園を歴史用語では「領域型荘園」と言っている。
したがって、小山氏ら在地領主は「自らの権益維持」という消極的理由よりも、もっと積極的な意図、すなわち自らの権益の拡大とその権益の一族への継承を図るために、「領域型荘園」を積極的に形成していったものともいえる。
平安末期、院権力への接近は小山氏に限ったことではない。
小山荘の南部に接する秀郷流藤原氏の嫡流大田氏の大規模荘園・武蔵国大田荘は、鳥羽院と美福門院の間に生まれた暲子内親王(後の八条院)の所領・八条院領であった。
また、小山政光の弟とされる下河辺行義が立荘した下総国下河辺荘も八条院領であった。下河辺行義は、治承4年(1180年)以仁王とともに平家打倒の兵をあげた源頼政の「郎等」(家人)であり、以仁王は後白河院の第三皇子で八条院の猶子(養子)であったことから、院権力との関係は非常に深かったことがわかっている。
さらに、小山政光の妻・寒河尼は、鳥羽院武者所、後白河院北面を務めた宇都宮朝綱であり、宇都宮氏は院権力とは極めて近い関係にあった。
このように、院政時代の北関東の在地領主層は、少なからず京の院権力とのネットワークを有し、そうした関係のなかで自らが荘官となって支配する大規模な「領域型荘園」=経済基盤を確立させていったことは間違いない。(高橋修編「実像の中世武士団」掲載論文「東国節団と都鄙間の文化交流ー下総下河辺氏と「関戸の宝塔」)
中泉荘と小山氏
栃木市中心部から南部地域には、小山氏が大いに関係する大規模な領域型荘園「中泉荘」があった。寛喜2年(1230年)小山政光の子・朝政が嫡孫長村に遺した譲状に、「中泉荘」の名が記されているので紹介する。

小山朝政譲状 小山文書(小山市立博物館)
【小山朝政譲状 小山文書】
「下野入道譲状惣領分」
(中略)
一、下野国
権大介職
寒河御厨 小山庄と号す 重代の屋敷なり
国府郡の内
日向野郷 菅田郷 蕗嶋郷 古国府 大光寺 国分寺敷地 惣社敷地
同惣社野荒居 宮目社 大塚野
東武家郷
中泉庄 加納
一、武蔵国 上須賀郷
(以下略)
譲状とは所領や財産を子孫などへ譲り渡すことを記した文書のことで、小山氏の惣領家に伝えられた所領・所職(しょしき)の一覧でもある。
実際に鎌倉幕府から所職を下された一次文書も残っている。建久3(1192年)年9月12日、源頼朝が御家人の小山朝政を下野国日向野郷の地頭職(じとうしき)に補任(ぶにん)したことを示す将軍家政所下文である。これは地頭職補任状(じとうしきぶにんじょう)とも言い、小山朝政譲状にも記載のある「下野国日向野郷」の土地・財産・人民からの一種の収益権=地頭職を将軍家から与えられたことを意味する。

将軍家政所下文(山川家文書)
では、「小山朝政譲状」のなかの所領の一つとして「中泉庄 加納」とあるものについて考察してみたい。
中泉荘とは、関連する史料で園域として確認されているところは、現在の栃木市の今泉、泉川、下皆川、牛久、富田、山田、榎本、西水代、和泉、富吉、小山市の大川島である。本荘部分は今泉郷とされており、栃木市中心部から南部地域、大平町・岩舟町・藤岡町の一部、巴波川右岸の小山市の一部などを包含する東西約6㎞・南北約8kmほどの規模を持つ荘園である。(網野善彦著講座 日本荘園史5 93頁 吉川弘文館)
「加納」とは何か。簡単に説明すると「加納田その他付属地」のことで、本来認められた免田(免田型荘園)以外に新たに耕作した土地など、荘園の付属地として承認されたもの。新荘及びその他付属地を指している。(網野前掲書)
したがって、小山氏は、広大な中泉荘のうち本荘を除き自ら在地領主として開発した新田(加納田)および周辺の野山などの付属地を支配していたものと推測する。
中泉荘は、「吾妻鏡」によると、藤原基通(摂関家)の荘園であることが記されている。おそらく、もともとは摂関期に成立した11世紀の免田型荘園からはじまったものと思われるが、院政期に、免田周辺の加納田や集落・山野をも包含した地域的ないわゆる「領域型荘園」として立荘されたものと推測される。(伊藤俊一著「荘園」85ページ参照)
では、小山氏がどのようにして中泉荘に勢力を伸ばすようになったのだろう。 それを知る手掛かりとして、「吾妻鏡」養和元年(1181年)閏2月23日条に「(小山)朝政が郎従太田管五・水代六次・次郎和田・池二郎・蔭沢二郎ならびに七郎朝光が郎等保志蓁三郎ら攻め戦う」と記載がある。それら小山氏郎等の本拠地は、それぞれの苗字から都賀郡太田郷(栃木市藤岡町太田)・同郡水城郷(栃木市大平町西水代)に比定される。(野口実著「坂東武士団と鎌倉」86頁)
また、先の「小山朝政譲状」に「東武家郷」の名があり、栃木市大平町北武井付近に比定されている。さらに、暦仁元年(1238年)12月の「播磨国守護代真弓願西解状」によれば、播磨守護職に補任されている小山氏が守護代として真弓氏を派遣して支配させていたことが記録されている。真弓氏の拠点地は現在の栃木市大平町真弓付近であろう。
これらのことから、平安末期から鎌倉初期にかけては、小山氏は藤岡町太田、大平町西水代、大平町真弓、大平町北武井を本貫地(拠点地)とする郎等(おそらく武力をもつ郷司クラスの小領主)を従えていたことがわかる。
史料的制約があることを承知でいえば、この四地とも、三鴨(みかも)駅家から下野国庁に続く古代東山道の道筋にあり、しかも中泉荘に地名が記録されている郷を本荘とするならば、太田・西水代・真弓は本荘以外の郷、すなわち加納地の郷である可能性が高い。
このことは、下野国衙の有力在庁官人であった小山氏が、古代東山道沿いの在地武士勢力と主従関係を取り結びながら、自らの支配領域を巴波川右岸である中泉荘にまで拡大させていった過程を示すものと考えて大きくは間違いはあるまい。
なお、中泉荘の北側の境界は不明であるが、西側は皆川荘と接していることが南朝の年号・延元3年(1338年)9月5日付け「北畠親房袖判下文写」から確認できる。(藤岡町史資料編 史料番号18 39頁参照) この史料は、南朝の北畠親房が、小山景政に勲功の賞として「中泉荘泉川郷」と「皆川荘息居郷」を与えた書状の写しであるが、「中泉荘泉川郷」は、現在の栃木市泉川町付近に比定できる。「皆川荘息居郷」の「息居」は、おそらく「荒居」(あらい)の転写誤りで、現栃木市泉川町に隣接する現栃木市新井町付近と比定できる。したがって、現在の栃木市泉川町付近までが中泉荘の北西方面の境界であったことが推測できるもので、中泉荘が現在の栃木市の南半分を占める広大な荘園であったことがうかがえる。
そうした小山氏による中泉荘の支配は、南北朝末期に小山義政の乱により、小山氏が没落するまで続いたと推測される。
栃木の名称の初出
ここで、中泉荘に関連して、栃木という地名の由来にも影響する興味深い史料があるので紹介する。その史料とは、明応元年(1492年)9月23日付け小山成長判物写(彦根藩井伊家文書)である。

【明応元年9月23日付け小山成長判物写】(彦根城博物館提供 彦根藩井伊家文書)
読み下し: 藤原成長(花押影)
下野国中泉庄杤木 早乙目屋敷十箇年御在陣し、相違なく御帰城す。
その忠により、早乙目方へ堀代として居内二間の諸公事ともにこれを下され候。
何れの給人中も心得申すべく候。よって定置ところ、件のごとし。
明応元年壬子九月二十三日
筆者註:
発給年は「明応九年」とも読めるが、明応年間における壬子(みずのえね)年は、明応元年に当たるため、本文書発給年を「明応元年」と認定した。
この文書は、明応元年(1492年)当時、小山氏当主であった小山成長(しげなが)が、家臣の早乙目氏に対し軍忠を賞し公事免除を言い渡したもので、そのなかに「下野国中泉庄杤木 早乙目屋敷」と記されている。「杤木」は、現在使用されている「栃木」のことで、おそらく、現在のところ一次史料として確認できる「杤木(=栃木)」という地名の初出ではないだろうか。
ちなみに、「杤」という字は、中国由来の「漢字」ではなく、日本でつくられた「国字」と言われるものである。漢字のトチの字は「橡」と書くが、国字のトチの字は「杤」または「栃」と書く。明治4年(1871年)11月14日栃木県成立の文書には「杤木懸」と記され、栃木町にあった県庁の門標も「杤木懸廳」(とちぎけんちょう)となっている。当時は、「杤木」と「栃木」の両方が公に使用されていたが、県名文字の統一を図るため、明治12年(1879年)4月11日に栃木県令鍋島幹(なべしま みき)が、「栃」の字使用に統一する旨の通達を出した経緯があり、今日の「栃」の字の使用に至っている。

明治4年(1871年)11月14日栃木県成立(宇都宮県を併合する前)の文書

栃木町(現栃木市入舟町)にあった栃木県庁の写真(片岡写真館)
「トチギ」と読む名称の初出には異論もある。
かつては鎌倉時代の「吾妻鏡」正嘉2年(1258年)7月10日条に「相論下野国栃木郷事」と見え、それを初出とする説があった。しかし、この「相論」(領地等をめぐる訴訟)の当事者の一人が佐野阿曽沼氏の者であることから、現在ではこの「栃木郷」は「栃本郷」(現佐野市田沼町)の誤記と推定されている。(角川日本地名大辞典9栃木県)
したがって、現在のところ、「トチギ」の名称は、彦根藩井伊家文書にみえる「杤木」が初出である可能性が高く、15世紀まで遡ることができるものである。
※ 「トチギ」の名称について、更に遡れる史料等があれば、情報の提供をいただければありがたい。
なお、伝承されている「杤木」の地名の由来として、神明宮(現栃木市旭町)が神明宿(現栃木市神田町)にあったころ(1403年~1589年)社殿の屋根にある千木(ちぎ)が遠くから見ると10本に見えたことから、神社周辺を「十千木(とおちぎ)」=「とちぎ」と呼ぶようになったという説がある。歴史的に根拠がある説とは思えないが、栃木に興味を持ってもらうためのきっかけとして、諸説の一つと紹介することまでは否定するつもりはない。
ここで、この文書がなぜ「彦根藩井伊家文書」に残されていたのかを若干説明したい。
この文書は、現在「彦根城博物館」に所蔵されている早乙女(早乙目、佐乙女と表記されている史料もあるが、ここでは「早乙女」に統一して表記する)氏関連の史料5点うちの一つである。「彦根城博物館所蔵文書」の『侍中由緒帳4』に、彦根藩士「佐乙女八郎左衛門家」の記述がある。それによれば、初代佐乙女与次右衛門は当初、結城秀康(越前松平家)の子・松平直政の家中にあったが、浪人となり、後を継いだ二代目重広の時に井伊家に仕えたとされている。
このことから、天正18年の小田原開城・降伏、秀吉の宇都宮仕置により、北条勢力下の下野国旧小山領・壬生領内に存在する領地は、すべて結城秀康に引き継がれたことに伴い、早乙女氏は結城秀康の家臣となり、その後、秀康の越前移封に伴い、先祖家伝来の文書を携えて越前に赴いた。その後、早乙女氏は秀康の子で結城家を継いだ直政に仕えることになったものと推察できる。
なお、早乙女氏関連史料としては、第3章「3-3粟志川城の合戦」に【天正元年(1573年)9月3日付け佐乙女兵庫助宛て小山秀綱感状】(彦根城博物館所蔵文書)を掲載した。
問い合わせ・メッセージ等は、「歴史のなかの栃木」(トップページ)からお願いします。
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