1-2 秀郷の子孫たちの権益をめぐる闘争
藤原秀郷の子孫は、栃木にどのように関わりを持っていたのか。
秀郷の嫡流とされている下野国南部の有力一族・小山氏は下野国庁の在庁官人の有力者であったとされている。秀郷流藤原一族間で起きた権益抗争を、現在の栃木市域で起きた「薗部保・戸矢子保事件」をもとに探ってみる。
安和の変
小山氏の登場
薗部保・戸矢子保事件
藤姓足利氏と小山氏との権益闘争
安和の変
将門の乱を鎮圧した藤原秀郷とその子孫はその後どうなっただろうか。
秀郷は朝廷から従四位下に叙せられ、下野国・武蔵国の守に任じられるなど将門討伐の最高殊勲者として認められたが、その後の活動については定かではない。
秀郷は、将門の首を都に持って都に凱旋してもよさそうなのに、その役割を使者に委ねているほどで、都での活動の形跡は同時代の史料にでは確認できない。秀郷は都に姿を見せなかったのではないかとも思われる。
しかし、中央権力と秀郷の関係は、同時代の史料で確認できる。関白藤原忠平日記「貞信公記抄」天暦元年(947年)閏7月24日条に、秀郷が、醍醐天皇の第10皇子で時の権中納言であった源高明(みなもとの たかあきら)をとおして、平の将門の兄弟が謀反を起こそうとしているという東国情勢を朝廷に奏上している記事が見られる。このことから、秀郷は、朝廷の権力者の一人・源高明を本主(主君)として仰いでいたが、自身は東国にいたことが推定できる。(野口実著「伝説の将軍藤原秀郷」45ページ)
秀郷が亡くなった時期については、史料上確認できないが、秀郷に代わって子・千晴(ちはる)の活動が康保4年(967年)の史料から見られ、千晴は、父秀郷同様に源高明に仕えている。
千晴が仕える源高明が、朝廷から排斥される事件が安和2年(969年)に起きる。
歴史上、安和の変と呼ばれるこの事件は、藤原氏による摂関政治を確立させるため、源満仲(みなもとの みつなか)の密告(皇太子を廃位させ別の人物を擁立するという陰謀)を利用して左大臣源高明らを排斥した謀略事件である。謀略の中心人物は藤原師尹(もろただ)と藤原兼家(道長の父)であるとされており、千晴は源高明を本主としていたことから事件に連座し、検挙・投獄され、のちに隠岐に流罪となってしまう。
そもそも、千晴が連座したのは、この事件の引き金となった密告者・源満仲と前武蔵介藤原善時は、武蔵国において秀郷の勢力を継承していた千晴の在地勢力と対抗関係にあったことも背景にあったと推測されている。
安和の変後、秀郷一族の宗主権は千晴の弟の千常(ちつね)に移った。
千常の子の文脩(ふみなが)の時代には、藤原摂関家との関係を深めていき、中央でも一定の地位を保ちつつ鎮守府将軍に任ぜられるなど、一族の勢力は下野・上野・常陸・下総から陸奥にまで及んだとされている。なお、一族への鎮守府将軍補任が一次史料によって確認できるのは、藤原実資の日記「小右記」の永延2年(988年)10月3日条に、「鎮守府将軍文條」と記されている文脩からである。
その後、院政期に文脩の子が、文行と兼光の系統にわかれ、文行系が摂関家の家人として「京武者」の立場を維持し中央における活動を続けた。西行に連なる佐藤氏などは文行系の系統から派生する。一方、秀郷流藤原氏の本流というべき兼光系は、秀郷以来の地盤である下野から上野一帯に帰住して、在地領主として活動を展開することになった。後に下野西部から上野一帯に勢力を広げた藤姓足利氏や、下野東部から武蔵・常陸・下総に進出した大田氏は、金光の系統である。
小山氏の登場
兼光系大田氏の庶流の一族が下野国小山氏である。
小山政光からはじまる小山氏は、下野国寒河御厨(小山荘)を本拠とし、下野国衙在庁職(権大介あるいは大掾)と押領使職を継承し、鎌倉幕府成立に当たって軍功を重ねた有力御家人といわれている。
小山政光の子に、小山四郎朝政、長沼五郎宗政、結城七郎朝光の兄弟があり、ともに鎌倉幕府の有力御家人として活躍した。この秀郷の流れを組む一族のうち、長沼五郎宗政を始祖とする長沼氏を継承するのが皆川氏である。
なお、小山氏を大田氏の庶家(宗家ないし本家より別れた庶子の一族で、通常は本家の姓を名乗れない分家)とする根拠については、松本一夫氏は著書「小山氏の盛衰下野名門武士団の一族史」(19ページ)に次のように論じている。
政光を庶子としたのは、(中略)、その父行政の兄弟で「大田四郎」を名乗る行光、それから政光の兄弟で下総国下河辺荘(北は茨城県古河市から南は千葉県野田市にまで及ぶ古利根川・太日川(現江戸川)周辺の長大で細長い荘域をもつ)を本拠とした行義、これらはいずれも大田氏の通字である「行」を継承しているのに対し、政光は、父のみに用いられた「政」を受け継いでいる点に注目したためである。
そして、本家筋にあたる大田氏はこの後衰退してしまい、本来庶流でった小山氏のほうが大いに隆盛となったため、(小山氏は)自らを秀郷の嫡流と称し、世間もそれを認めて定着していったのではないだろうか。
秀郷流藤原氏の嫡流・大田氏については、その本拠を現栃木市藤岡町大田とする説がある。しかし、残念ながら、「吾妻鏡」(養和元年閏2月23日条)に「朝政(政光の子)が郎従太田管五・水城六次・次郎和田・池次郎・蔭沢次郎」という記述があり、太田管五はその名字から都賀郡太田郷を本拠とする小山氏の郎等であることが確認できる。したがって、藤岡町太田を秀郷嫡流の大田氏の本拠とするには少々無理があるといわざるをえない。現栃木市藤岡町太田にある太田城址は、小山氏の郎等であった太田氏の本拠と推定するのが妥当であろう。
薗部保・戸矢子保事件
小山氏を初めて名乗った小山政光は、秀郷以来代々受け継いでいる下野国の在庁管人の地位を継承し、院政期から鎌倉時代初期には秀郷流藤原氏の嫡流と位置づけられるまでになる。
では、まず小山氏とはどのような一族だったのだろうか。
秀郷の子孫というだけでは、現在の小山市・栃木市を含む下野国南部を支配し、名門武士団に発展することはできない。
一般には、小山氏は、野木宮合戦での戦功を頼朝に認められ、平家追討に手柄をあげるなど、武門の誉れを足がかりとして有力武士団に発展したように思われがちだが、戦闘技術はもちろん必要だが、それにも増して、戦いに必要な武具・馬の調達、大勢の兵動員を可能とする確固たる経済基盤が必須であることは言うまでもない。では、小山氏はその経済基盤をどのようにして確立していったのであろうか。
その過程を知るヒントとなる史料を次に示したい。
舞台は、下野国の薗部郷・戸矢子郷(現栃木市薗部町周辺及び市北西部)をめぐる事件である。
【永万元年(1165年)12月17日 庁宣】
読下し文:
早く東大寺便補保薗部、戸矢子両郷を免じ奉らしむべき事
(中略)
右件の両郷所当物を以て彼の寺御封米代に便補すべきの由、去々年庁宣を成し進すといえども、過分巨多の旨 在庁等訴え申すに依り、一方に停止せしめをわんぬ。然り而して本寺沙汰人威儀師覚仁まげて申請せらるるの状有り、早く本の如く彼の両郷を免じ奉らしむべし。
(栃木市史通史編 358ぺージ)
現代語意訳:
薗部、戸矢子両郷を東大寺の便補保として承認する事
(中略)
一昨年、薗部、戸矢子両郷を東大寺の便補保とすることを認める庁宣を出したが、その後まもなく下野国の在庁官人(国司の地元採用役人)から、両郷に便補保を認めることは「過分巨多」、つまり東大寺の取分が多すぎるとの訴えがあり、薗部保あるいは戸矢子保のどちらか一方の許可を停止させた。その後、東大寺の沙汰人・覚仁からの強い要請があったことから、もとどおり両郷を便補保とする命令を復活する。
この文書に出てくる「在庁」(地元採用の役人、在庁官人)には間違いなく小山氏の祖・小山政光の存在が見え隠れする。そして、下野国内における在地勢力・秀郷流藤原氏の一族間の権益争い、そして中央権門における後白河院政内部の動きがポイントになる。
まず、この事件の背景から説明しよう。
平安時代、現栃木市薗部町を中心とした一帯に薗部という郷があった。
奈良東大寺は、もともと下野国都賀郡内に東大寺の主要収入源となる物や雑役などの税を納める封戸(ふこ)を有していた。封戸とは、今日的な言葉でわかりやすく説明すれば、寺社の造営など特定の目的のために、特定の領民からその目的税を徴収できる権限(制度)のことである。都賀郡内に割り当てられた封戸は高栗郷50戸とされているが、どこかは不明である。
なぜ東大寺が下野国内に封戸といわれる権益をもっていたかというと、封戸はもともと全国に国分寺を造営するための財源確保が皮切りとされており、東大寺のために国司を通じて物や雑役を課す仕組みであった。東大寺は割り当てられた封戸に代えて便補保(びんぽのほ)の設定を下野国守に強く求めた。
便補とは、簡単に言えば、本来徴税権を持つ国司を通して寺や神社に納入されるべき御封(税の一部)を、国司を通さず直接に寺や神社に納めさせることができる仕組みである。この便補(「便宜的に補充する意味」といわれる。栃木県史)が設定された郷(所領)を便補保という。寺社にとっては、国家的な給付を受ける仕組みを前提としながらも、自前の私的な経済体制に変換させていくもので、経済的メリットが大きい。国司にとっては、荘園のように国衙支配から離脱するのではなく、あくまで国衙領(公領)における国司の税の取り分を残したうえで便補の設定になる。
東大寺は、応保2年(1162年)3月に下野国守(大介職:おおすけしき)であった大江信遠の発した 庁宣(国庁が発した命令書)により薗部郷に便補保を設定することが認められた。
大江信遠は、当時下野国の知行国主であった後白河院の近臣であり、国府へ赴任しない在京官人(遙任国司)であった。知行国主・後白河院の意向を踏まえて、国司である大江信遠が薗部保の立保(設置)を認めたと考えられる。
東大寺は、薗部郷のほかに、栃木市北西部の永野川上流域一帯に封戸を有する戸矢子(へやこ)という郷についても便補保の設定を企てていた。薗部保立保の2年後、長寛2年(1164年)6月、大江信遠の後任・藤原懐遠(かねとう)の発した庁宣によって戸矢子郷も薗部郷とならんで東大寺の便補保とすることが認められた。戸矢子郷は現在の栃木市梅沢町・尻内町・千塚町を中心とした地域で、都賀町木・大橋・臼窪にも及ぶとされている。
ところが、戸矢子郷と薗部郷の両方を便補保にすることに反対する勢力がいた。下野国の在庁官人(下野国在庁の地元採用役人)である。薗部・戸矢子両郷に便補保を認めることは「過分巨多」、つまり東大寺の取分が多すぎると在庁官人が訴え、薗部保あるいは戸矢子保のどちらか一方の許可を停止させることにした。しかし、それには、東大寺の沙汰人・覚仁(かくにん)が強く反対した。その結果、最終的に先に掲げた庁宣【永万元年(1165年)12月17日 庁宣】が示されたのである。
永万元年12月は、下野国守藤原懐遠が辞任して藤原光能(みつよし)と交代しており、交代した日は不明であるが、このときの庁宣は、内容から考えて懐遠の後任国守となった光能が発給したものであろう。
なお、藤原光能は、後白河院の近臣で、「平家物語」では,文覚の要請で平氏追討の院宣を書いたとされる人物である。京都の神護寺所蔵の肖像画、国宝「神護寺三像」の一つとして、「源頼朝像」、「平重盛像」とともに「藤原光能像」が伝わっている。

神護寺に伝わる国宝「藤原光能像」
これにより、最終的に薗部郷と戸矢子の両郷とも東大寺の便補保となったわけだが、実は、これら一連の戸矢子保をめぐる下野在庁官人と東大寺の争いに、小山政光が大きく関わっていたのではないかと考えられている。(松本一夫著「小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史」20頁) この時期、小山政光は在庁官人の有力者であったことはほぼ間違いない。寛喜2年(1230年)政光の子・朝政が嫡孫長村に遺した譲状(ゆずりじょう)に、「下野国 権大介職」(ごんのおおすけしき)とある。小山氏は代々下野国における在庁官人の最高責任者の地位にあったことをうかがわせるものである。
藤姓足利氏と小山氏との権益闘争
東大寺との争いは、その根底には、下野南西部の足利荘在地領主であった秀郷流藤原氏の一族・足利有綱(戸矢子有綱)との所領の権益をめぐる争いがあったと推測される。
なぜなら、便補保設定の後、東大寺沙汰人の覚仁の後を継ぎ、戸矢子便補保の現地管理者である保司となったのが足利有綱であるからである。
東大寺の覚仁は、東大寺の経済的基盤である所領経営の確立に辣腕をふるったため、「南京の悪僧」とも言われ、歴史に悪名を残しているような人物である。その覚仁が知行国主の後白河院に強く要請してきた背景に、在地領主の有綱がいたことは間違いない。秀郷流藤原氏の一族・藤姓足利氏は、本来上野国を中心とした武士団で、上野国在庁官人であった可能性も高く、有綱の父・家綱の代頃に旧渡良瀬川(今の矢場川)を越えて下野国南西部に進出してきたと考えられている。(野口実著「坂東武士団と鎌倉」掲載須藤聡論文「下野藤姓足利一族と清和源氏」)
藤姓足利氏の本庄である足利荘の領主職を家綱から受け継ぐのは有綱の兄・俊綱であったため、有綱は現在の佐野市及び栃木市北西部に進出することを企てていたものと思われる。
そう考えてくると、藤姓足利氏一族が東大寺覚仁と組んで戸矢子便補保の設定と戸矢子郷一帯の再開発に能動的に動いたと考えたほうが自然である。もちろん立保の承認を得るに当たっては東大寺側は覚仁を使って積極的に後白河院に働きかけたことは間違いない。
足利有綱が東大寺の僧侶・覚仁にどのようにして接近し、互恵関係をもったかは不明である。
しかし、このころの藤姓足利氏は簗田御厨などをめぐって源義家の三男・義国流との競合関係が深刻化していた。そこで、藤姓足利氏は在京の有力な政治勢力である平家と結びつくことでこれに対抗していた。あくまで憶測になるが、平家を介して有綱と覚仁が接近した可能性も考えられよう。最終的に戸矢子・薗部両郷の便補保が認められた永万元年(1165年)は、8月に平家と競合関係にあった徳大寺実定が権大納言を辞し、代わって平清盛が権大納言に補任された年でもある。後白河院政内における主導権争いにも絡んでいる可能性もあり興味は尽きない。
後の「吾妻鏡」に記述されているように、このころ藤姓足利氏と小山氏とは、「一国之両虎」として権威を争う関係にあったとされており、ほかならぬ現栃木市の中心部から北西部にかけての地域が、秀郷流藤原氏の支配権争奪の場となっていたことは非常に興味深いことである。
結果的には、下野国を知行していた後白河院の推挙によって任命されていた大江信遠・藤原懐遠ら国守のもとで、東大寺にとって経済基盤を拡大させる権益を得ると同時に、後白河院とそれにつながる近臣等にとっても、国衙支配権を手放さず藤姓足利氏による田畑の再開発が進められることによって一部税収増が期待できるという、有綱を含む東大寺側と後白河院側と双方に有利な裁定がなされたのである。
下野国在庁官人の最高責任者「権大介職」の地位にあったとされる小山政光にとっては、藤姓足利氏一族の有綱との権益争いに敗れる屈辱的な結果になった。
その後、足利有綱は、寿永2年(1183年)に下野国南部で戦われた野木宮合戦では、有綱の子佐野基綱・阿曽沼広綱を従えて、小山政光の子・朝政・朝光・宗政三兄弟とともに志田義広(源義広)・藤姓足利氏嫡流俊綱の連合軍と戦っている。有綱は、この戦いに勝利するとともに、佐野及び戸矢子における支配権を確固たるものにした。
一方、合戦の勝利をもたらす主役を演じた小山氏一族は、藤姓足利氏嫡流の没落とともに、自他ともに認める秀郷流藤原氏の嫡流としての地位を獲得するに至った。
しかし、いったん藤姓足利氏の支配地となった戸矢子は、その後の歴史を通じて、小山氏やその後継子孫ともいえる皆川氏の領地となることは一切なかったのである。

野木宮合戦で、小山朝政が陣を張ったとされる野木神社(野木町)
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