歴史探訪①下野国庁跡と室の八島

朝靄の風景(撮影地:栃木市内)

下野国庁跡

 東武鉄道野州大塚駅から南に約4キロ、栃木市田村町にあるいくつものトマトハウスの脇をとおり思川の堤防がほど近くみえるところに、昭和57年(1982年)に国指定史跡に指定された下野国庁跡がある。


 下野国庁跡の案内板には次のように書かれている。

 現在国庁跡には、鮮やかかな朱塗の建物が立っている。この建物は平成6年に復元された前殿(ぜんでん)である。前殿とは国府の役人が儀式などを行っていたところで、当時の国庁域内の中央に位置していた建物とされている。
 正直言って、初めて下野国庁跡を訪れた人にとっては少々物足りない建物に見える。なぜなら、下野国庁と言えば、当時、下野国の軍事・警察・徴税・政務等をつかさどる権力機構の中心を担う所であろうから、現代の県庁のように、他を圧倒する立派な建造物を期待してもよいからである。国庁は、国司が政務 ・儀式などを行う国府の中でも最重要施設であり、中心建物である正殿を中心に、前庭を 囲むように前殿 ・脇殿といった建物がコの字形に配置されていたとされている。ただ、復元されたのは国庁の建物遺構群のひとつを再現したにすぎず、下野国府の全体像がわからないからであろう。
 だが、本当の下野国庁の姿を知る手がかりは「下野国庁資料館」にある。
 入場は無料で発掘調査の出土品や国庁の復元模型などが展示されており、下野国庁の歴史を掘り下げて知ることができる。さらに、下野国府の範囲(国府域)を示した大きな航空写真を目にすることができる。
 国府域とは、国庁を中心とした役所群である国衙、さらに役人や雑役を担う者の居住施設等を含めた都市域全体を示す言葉である。下野国府域は、昭和58年(1983年)までの発掘調査では概ね東西540m、南北約800mととされていたが、その後、一部周辺地域の発掘調査をしたところ、官衙建物群跡など多くの遺構が見つかった。これにより、下野国府の範囲は少なくとも東西約1500m×南北約1500mに及ぶ広大なものであったことがわかった。その範囲や遺構の場所を航空写真に落としたものが展示されており、現在の道路や学校など主要建物の位置と重ね合わせてみると、その当時の下野国府の都市区域の規模がとてつもなく大きいことに驚かされる。(塙静夫著「古代下野への誘い」2002年 参照)
 下野国庁を訪れたら「下野国庁資料館」を是非訪れてみることをお勧めする。

下野国庁前殿(復元)(栃木市観光協会ホームページより)

下野国庁跡資料館

室の八島

 国庁から北に約3.5kmのところに、下野国総社 大神神社(おおみわじんじゃ)がある。
惣社とは、平安時代、国司が下野国中の神々を集めて祀った神社で、国司の着任儀式が行われたところとされている。

 大神神社

 現在の神社の境内には、歌枕(和歌に詠まれた名所)「室の八嶋」を再現したと言われる、橋で結ばれた8つの小島があり、島のまわりは池になって水がたたえている。
 再現されたとされる「室の八島」は、古来より歌枕として多くの歌人に詠まれてきた「室の八島」や、松尾芭蕉「奥の細道」に登場する「室の八島」とはおよそイメージが違う。
 そもそも、室の八島とは、室の八島から立ち上る水蒸気が煙のように見えたことから、平安時代より歌枕として多くの歌人に詠まれてきたもので、現在の人工の池と八つの島のことではないだろう。おそらく、下野国府にそう遠くない平野部に清水が湧き出でて、その水が池や沼をつくり、時には朝靄(あさもや)が煙のように辺りに立ち込め、広大な湿地帯のなかに点在する集落や森林が島のように見えたことから、都人は室の八島と呼んで語り伝えたのだと思う。

 ここで大きな疑問にぶつかる。そもそも「室の八島」のけぶりは、恋の炎が燃えて出る「煙」のことであるはず。つまり恋焦がれる熱から発せられる煙なので熱い煙のはずだ。しかし、朝靄は寒い朝に発生する水蒸気であり、恋の炎と結びつかないのではないだろうか。この疑問に、江戸時代中期の歌人石塚倉子はみごとに答えてくれた。倉子は歌集「室の八島」の「春歌」中で次のような歌を詠んでいる。

春くれば 室のやしまのけふりさへ けさや霞にたちかはるらん

 この歌について、石塚倉子研究部会著「うずま川 江戸中期の女流歌人 石塚倉子遺著『室の八島』」平成24年発行(14頁)で次のような解釈を示している。  

 ヨシ生い茂る湿地に幾多の山川が流れ、清き湧き水も多く季節により霞や水蒸気が発生したことであろう。自然の前に立ちすくみ、頭を垂れてしまう畏敬の念、これが日本の叙景歌の本質であり、そんなところが「室の八島」で「煙」の解釈にもなったのであろうか。下野国府は約4キロメートル四方ともいわれ、思川右岸に広がる沖積地には、役宅なども集中し、朝餉(あさげ)(竈)の煙が朝霧で山紫水明の世界を演出したのだとも想像される。

 つまり、役人の宅からたちのぼる朝餉の竈の煙が、自然の営みである朝霧のなかに溶け込んでいく様子を読んでいるのである。石塚倉子については、第5章の「歴史探訪⑧喜多川歌麿と歌人石塚倉子」で詳しく紹介したい。

 ちなみに、標題の写真「朝靄の風景」は、筆者が下野国府からそう遠くない栃木市内で早朝に撮ったものである。「室の八島」を想像できるだろうか。

 室の八島を詠んだ代表的な歌を二つ紹介しよう。藤原道長と同時代の公卿であり歌人であった藤原実方(さねかた)と院政時代の公卿で歌人の大江匡房(まさふさ)の歌である。

藤原実方

原 文:いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八島の けぶりならでは
現代語訳:どうやって恋の炎が燃えていることをあなたに知らせることができましょうか、室の八島のように煙を立てることもできないのですから。

大江匡房

原 文:煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける
現代語訳:室の八島には、恋の思いを伝える煙がありますが、私は室の八島ではないので、あなたに思いを伝えることができません。あなたに恋い焦がれることしかできないことが、悔しくてなりません。

 藤原実方には、おもしろい逸話が残っている。
 御所に仕える公卿であった実方が、和歌の催しのとき、一条天皇の前で藤原行成と和歌について口論となり、実方は行成の冠を奪って投げ捨てるという事件を起こす。
 その様子を見ていた一条天皇は激しく怒り、「歌枕を見て参れ」と、実方に陸奥守を命じ左遷させたという。これは鎌倉時代初期に書かれた「古事談」という説話集によるもので、史実かどうかは怪しい。また、この歌は実方が陸奥に赴く前に都で詠んだものとも言われている。いずれにしても、実方が実際に陸奥国に赴任したことは事実であるので、東山道を通って陸奥に赴く際に、下野国府近くで、歌枕として有名な「室の八島」に立ち寄った可能性もあり、大変興味深い。

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