第1章 藤原秀郷から小山政光まで

下野国庁を起点に秀郷流藤原氏による荘園形成過程を探る

1-1 鎮守府将軍・藤原秀郷とは

 平将門の乱を鎮めた藤原秀郷は、朝廷から派遣された下野国府の国司の末裔であった。母方の一族は在庁官人の有力者であり、下野国庁にそう遠くないところに居所を有していたものと推測されており、秀郷生誕の地は現在の栃木市域であった可能性は極めて高い。
 まず、藤原秀郷とはどのような人物であったのか知ることから、栃木の源流を探ってみよう。

秀郷のルーツ
武装集団のリーダーから鎮守府将軍へ
秀郷の本拠地
秀郷伝説

秀郷のルーツ

 藤原秀郷を祖とする藤原氏・いわゆる「秀郷流藤原氏」の歴史を語る場合、下野国府から紐解いていく必要がある。
 なぜなら、藤原秀郷は、承平・天慶の乱で平将門を打ち取った武将がとされているが、秀郷の父祖は、そもそも下野国府で介(すけ:国司二等官)や掾(じょう:国司三等官)を務める国庁の役人であったからである。
 ちなみに、国府とは、律令制度のもとで国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市区域のことで、国庁は今の県庁に当たる。国庁とその周りの倉庫・官舎等の施設群を含めた政務機関全体を国衙(こくが)という。国庁のトップに立つのが一等官の守(かみ)である。
 改めて、秀郷のルーツを紐解くと、秀郷は、藤原北家の一族で桓武天皇の世天応元年(781年)に左大臣になった藤原魚名(うおな 藤原房前の五男)とされている。魚名は、翌天応2年(782年)6月に突然左大臣を罷免され大宰府に流され、子息たちも同時に左遷された。罷免の理由は皇位継承をめぐる事件に連座したとされるが、藤原氏における権力闘争に敗れたものと思われる。
 魚名の五男・藤成は9世紀前半おそらく下野介(しもつけのすけ:国司の長官である守に次ぐ二等官)として下野国に赴任したとみられる。藤成は秀郷の曾祖父に当たる人物で、赴任後、国衙の書記や雑務を取り扱う役職の史生(ししょう)を務めていた鳥取業俊(とっとりなりとし)の娘を妻に迎え、豊沢をもうけた。
 鳥取氏は下野国在地の有力豪族と推定されており、弘仁2年(811年)に藤成が播磨(兵庫県)介としてとして転任した後も、子の豊沢は下野国にとどまり、外祖父・鳥取業俊の庇護を受けて成長したと考えられる。豊沢は当時の社会慣習に従って父の転任後も下野の鳥取氏のもとで成長し、成人に達した後、その血統を背景に国府の在庁官人の一員に加えられたものと思われる。在庁官人とは、在地豪族や中央から土着した中下級貴族で、国庁における地元採用の事務官に相当する。
 その後、豊沢は同じ在地豪族である鳥取豊俊(母方の父・鳥取業俊の弟)の娘との間に村雄をもうける。そして、村雄は鳥取氏よりもさらに有力な豪族で下野掾(しもつけのじょう)という役職に就いている鹿嶋氏の娘と婚姻関係を結び、その間に生まれたのが秀郷とされている。
 なお、掾は守(かみ)・介に次ぐ国司の三等官であり、村雄はそのような国府の実力者である鹿嶋氏と姻戚関係をもったことから、下野国内でかなりの勢力を有していたことがうかがわれる。
 秀郷の祖父豊沢と父村雄は、下野国司の一員としての権力を背景に、在地の豪族を配下におさめ、田地の開墾を通じて、下野国南部一帯に広大な土地と農民を集積させていくとともに、軍事力をも蓄えて地方留住のいわゆる軍事貴族として成長していったものとみられる。(野口実著「伝説の将軍 藤原秀郷」吉川弘文館 2001年27頁参照)
 つまり、秀郷の父祖は、下野国の在地豪族や国府の実力者との婚姻関係を重ねながら、着実に国衙公権に食い込み、勢力を拡張していった。そして、藤成から村雄までの三代の間に、この一族は、自らの藤原氏北家出身であるという貴種性と地方の有力豪族との婚姻関係により、自らの土着化と下野国での存立基盤の拡大を図ったということだ。(山本享史著「安蘇史談第37号掲載論文『武士の成立と藤原秀郷-安蘇の名門武士団・佐野氏のルーツを探るー』」参照)

武装集団のリーダーから鎮守府将軍へ

 では、秀郷自身はどのような人物だったのだろうか。その手がかりを知る史料を二つ紹介する。

【日本紀略 延喜16年(916年)8月12日条】
読下し文: 下野国言(もう)すらく、罪人は藤原秀郷、同兼有(かねあり)、高郷(たかさと)、與貞(ともさだ)等十八人なり。重ねて国宰(こくさい)に仰せて、其の罪科に随(したが)い、各(おのおの)配流(はいる)せしめるの由(よし)、重ねて下知(げち)す。

【扶桑略記 延長7年(929年)5月20日条】
読下し文: 下野国、藤原秀郷等の濫行を糺(ただ)し勘(かんが)ふべきの由を言上す。(関東の)国々、人兵等を差し向かうべきの官符五通、請印(しょういん) す。
    ※括弧書きは、栃木県立博物館学芸員山本享史氏による資料を引用

 史料の背景と内容を解説すると、次の通りになる。
 平安時代に編纂された歴史書である「日本略記」の記述するところは、延喜15年(915年)2月に、上野国(群馬県)で反受領闘争があり、受領の藤原厚載(あつのり)が殺され事件が起こる。この事件に隣国下野国の住人藤原秀郷も荷担していたと認定されたのか、朝廷は下野国衙に秀郷とその一党18人を流罪に処する命令を出した、というのである。ここに見える高郷は、「尊卑分脈」(南北朝時代に編纂された諸家の系図、信頼性は比較的高いとされている)によると秀郷の弟にあたり、秀郷はこのころ、一族・郎党18人を主体とした反国衙的武力集団を率いて、下野国や上野国を跳梁跋扈していたということが知られるのである。
 「扶桑略記」(平安時代に書かれた私撰史書)では、その13年後に下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、朝廷は下野国衙と隣国五か国に「人兵」を差し向けることを指示する秀郷追討の官符を出した、というものである。
 下野国府おける在地実力者の家系に生まれた秀郷であるが、秀郷自身が平将門の乱以前に下野国府への出仕した形跡は確認できない。秀郷は、むしろ平将門の乱の前は下野国府とは対立関係にあったということだ。
 下野国は、蝦夷との接点を持つ地理的環境から、弓馬に長ける蝦夷との激しい戦いを経験し、また、蝦夷の俘囚(ふしゅう 朝廷が東北進出を進める過程で捕虜となった蝦夷)をとおして騎射術(馬に乗った状態から弓で矢を射る技術)を磨き、弓馬に長ける武芸が藤原秀郷一族に発展、継承されていったとみられる。
 地方役人の家に生まれ、国衙の権力を背景に在地勢力を配下にしながら、都下りの国司に反抗し、反乱勢力として扱われていた秀郷だが、大逆転の転機が訪れる。それが平将門の乱だ。
 平将門は、天慶2年(939年)11月から12月にかけて、常陸、下野、上野の各国府を立て続けに襲撃し、ついには新皇を名乗って関東一円を軍事制圧した。
 将門の反乱に対して、朝廷はどう動いたのか。
 天慶3年(940年)朝廷は将門追討の官符を下し、その時、下野国押領使に補任されたのが秀郷であった。押領使とは兵員を統率する役職で、武芸、おそらく騎射術に秀でた者などが任命されるたであろう。朝廷とすれば、公権力と対立するやからであろうがなかろうが、とにかく在地の武装集団のリーダーを自分の側に取り込んで、反国家勢力を討ち果たそうしていたのである。朝廷側のそうした意図に秀郷はうまく乗ったのである。

 つまり、将門の乱以前は、秀郷も将門も地方に土着した受領の後裔であるという点、それそれの立場はそう大差がなかった。秀郷と将門は本来同質の存在であったにもかかわらず、乱の終結後は、国家権力に従属し、そのなかで功績を得たことにより改めて自らの存立基盤を国家により認められた秀郷と、国家権力に反抗してつぶされた将門との間には、雲泥の差がついたということになる。

 秀郷は、平将門を打ち取ったあと、奥羽の蝦夷鎮圧に当たる鎮守府将軍に任じられたと伝わっている。秀郷の子孫は、代々、鎮守府将軍に就任し、下野南部を中心に東上野(群馬県東部地域)・北武蔵(埼玉県北部地域)・北下総(茨城県結城・猿島・北相馬郡域)にまで勢力を拡大する。
 その後、秀郷の子孫たちは、地方に経済基盤を置きながら都を政治的な活動の舞台とする中央軍事貴族と称される一族になって成長していくことになる。

秀郷の本拠地

 秀郷の父村雄も母方の祖父鳥取豊俊も下野国衙に勤める在庁官人であった。この二人の居館がどこにあったのかは全くわかっていない。
 二人が勤める下野国衙は、昭和51年(1976年)から昭和58年(1983年)まで発掘調査が行われた結果、現在の栃木市田村町にあったことが確認されている。したがって、おそらく下野国衙にそう遠くないところに居所を有していたものと推測される。そう考えれば、史料上は確認できないものの秀郷誕生の地は下野国府のあった現在の栃木市域で、広く都賀郡を本拠地として活動していたと考えられる。
 ところで、栃木市に隣接する佐野市は、唐沢山城(からさわやまじょう)を築いたのが秀郷であったという伝承や、戦国時代に唐沢山城の城主であった佐野氏が秀郷の子孫であることなどから、佐野市を「秀郷ゆかりの地」として、「さの秀郷まつり」を開催するなどの観光キャンペーンをを行っている。
 佐野市の公式ホームページでは、唐沢山城と秀郷の関係については、意外にも次のように否定的な見解を記述している。

 唐沢山城の築城は、秀郷によってなされたという伝承もその一つです。しかしながら、信頼できる史料に見える秀郷に関する記録は、断片的なものであり、築城に関するものは確認することができません。また、これまでに実施されている発掘調査成果などによっても、築造年代は、早くても15世紀ごろではないかと考えられています。

佐野市公式ホームページhttps://www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/kyouiku/bunkazaika/gyomuannai/4/2/4883.html

 唐沢山城の秀郷築城伝承の流布は、おそらく、秀郷の子孫であり、唐沢山城主であった佐野氏が、自らのアイデンティティとして、その正当性を主張するための政治的意図があったものと見られる。(野口実著「伝説の将軍藤原秀郷」吉川弘文館 2001年)
 一方で、現在の佐野市地域の一部は秀郷の支配下にあった可能性は十分にある。また、佐野氏は間違いなく秀郷流藤原氏の子孫であることなどから、佐野市が「秀郷ゆかりの地」として市をあげて地域活性化に取り組んでいることは大いに称賛に値するものであろう。秀郷の本拠地と推定され、しかも秀郷流藤原氏の末裔である皆川氏を擁する栃木市も大いに見習わなければなるまい。

秀郷伝説

 秀郷は多くの伝説を生んでいる。
 かつて小山氏や佐野氏が支配した地域に、秀郷由来の神社や城跡が数多くある。もとより小山氏も佐野氏も、秀郷流藤原氏の流れをくむ一族であるので、その領地支配をより強固なものにするための装置として、一族の誇りとする秀郷を築城の祖としたり、秀郷が戦勝祈願等を行ったとする伝説を作ったのではないかと推測される。
 宇都宮市には、秀郷が「百目鬼(どうめき)」と呼ばれる鬼を退治したという伝承がある。また、滋賀県近江の瀬田の大ムカデ退治伝説も有名で、ともに将門との闘いの武勇伝が元になっているといわれている。
 さらに、将門の乱平定の話をもとに、日光戦場ヶ原の由来が生まれ、そこから宇都宮の百目鬼伝説や近江のムカデ退治伝説が生まれたとも言われている。
 小山市立博物館の佐久間弘行氏は、論文「俵藤太伝説と秀郷流藤原氏」のなかで秀郷伝説を次のように論じている。

 秀郷が平将門の乱という未曾有の国家的反乱を鎮圧し、子孫が長らく京機の治安維持を担ったことにより、秀郷流藤原氏こそが王権を守護する家柄であるという意識が京都及び近辺の人々に定着していったのであろう。近江国を舞台としてムカデ退治説話などは、将門鎮圧という史実をベースに、秀郷とその子孫が東方からの災いの侵入を防いでくれるという都人の意識が、創出させたのであろう。かくして秀郷は伝説の将軍として語り継がれ、その子孫たちもまた秀郷を祖とすることを誇りとし、各地に展開して繁栄することとなったのである。

 さらに、近代に至って、栃木県内及び全国の秀郷の末裔を称する人々や佐野氏の旧臣を称する人々の中から、秀郷の霊廟を唐沢山城跡に建設しようとする運動が起こる。その運動の中心になったのは当時日本赤十字社の社長を務めていた佐野常民(さのつねたみ)であり、彼の奔走により、明治16年(1883年)に唐沢山神社が創建され、明治23年(1890年)には「別格官幣社」に列せられることになった。「別格官弊社」とは、明治政府によって設けられた国家神道下の近代社格制度における社格の一つで、楠木正成を祀る湊川神社をはじめ、靖国神社のように国家のために特別な功労があった人物を祀る神社が列格されている。
 戦後の昭和21年に社格制度は廃止され、唐沢山神社は国家神道とは無縁の神社となっているが、現在も秀郷を先祖として思慕・敬愛する人々や秀郷を英雄として尊崇する人々が栃木県内はもとより全国に広がっており、唐沢山神社への参拝者は絶えない。

田原藤太秀郷像(個人蔵、県立博物館)

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