歴史探訪 「中泉荘 杤木」とはどこか―栃木城築城との関連を探るー

 「第1章1-3  経済基盤としての小山荘と中泉荘 杤木『杤木』」のなかで、「杤木」という地名の「初出」として考えられる「明応元年(1492年)9月23日付け小山成長文書」を紹介した。この書状にある「中泉荘 杤木 早乙目屋敷」とは、現在の栃木市のどの辺を指す地名なのかを検証してみたい。

彦根城博物館所蔵 井伊家文書 小山成長文書

  まず、文書にある中泉荘の範囲だが、中泉荘は、関連する史料で荘園域として確認されているところでは、現在の栃木市内では、今泉、泉川(栃木市史通史編520ページでは皆川荘の誤りと指摘している)、下皆川、牛久、富田、山田、榎本、西水代、和泉、富吉、小山市内では大川島という地名が確認されている。これらの地名を現在の地図に当てはめると、栃木市中心部から南部地域、大平町・岩舟町・藤岡町の一部、巴波川右岸域の小山市の一部などを包含する東西約6㎞・南北約8kmの規模を持つ荘園であったことが推定できる。(網野善彦著講座 日本荘園史5 93ページ 吉川弘文館)

 下野国衙の有力在庁官人であった小山氏が、その軍事力と国衙の権威を上手に使って、古代東山道沿いの在地武士(土豪)を取り込みながら、自らの支配領域である「国府郡」(小山朝政譲状記載)の西端ともいえる、赤渕川湿地帯(下流は巴波川に合流)を越えて右岸(西側)域にあった中泉荘にまで支配領域を拡大させていった、と推測される。

 そう考えた場合、小山氏の支配下にあった中泉荘・杤木の位置として有力なのは、赤渕川右岸から巴波川左岸(東側)までの中間領域が考えられる。巴波川右岸(西側)に至っては筥森(現栃木市箱森)など「皆川荘」の領域とも交錯するから、小山氏の勢力圏としては巴波川左岸までと考える。さらに踏み込んでいうと、江田郁夫氏が10月28日の講演会で説明していたとおり、室町中期以前から集落があったと思われる「宿河原」地域を含む現在の栃木市城内地区こそが、「早乙目屋敷」のあった「杤木」の最有力候補ではないかと考えている。

 その根拠としては、現在の栃木市中心街(万町、倭町、室町等)を形成している場所には室町時代中期に集落があった痕跡はほぼ見えない。近龍寺が現在地に移転してきたのは、天正16年(1588年)、神明宮は天正17年(1589年)、定願寺、満福寺も天正年間後半のほぼ同じ時期に現在地に移転してきたことが推定されている。それに対し、宿河原(現栃木市城内町の南部地域一帯)には、天正7年(1579年)に皆川広照の命により円通寺がこの地に移転してくる以前から、長清寺が存在していたことがわかっている。(栃木郷土史136ページ、栃木市史通史編635ページ参照)さらに、現在栃木市万町にある近龍寺の由緒によると、近龍寺の前身にあたる称念寺が、応永28年(1421年)に宿河原に創建されたことが伝えられている。(近龍寺雑記 5ページ参照) 

称念寺跡とされる場所に建つ「宿河原公民館」

「慈眼寺本尊田宿聖観音 下田宿公民館」の案内板

(道路拡幅工事で移動した可能性あり)

 栃木市城内町の県道沿いの交差点に「慈眼寺田宿聖観音」という案内板がある。ここには、「田宿」という小字名が残る集落があったことがわかる。近くには、「大宿」という小字名が残る「大宿公民館」もある。さらに、宿河原の北に位置する神明宿には、応永10年(1403年)創建の神明宮(移転前の神明宮)もあった。(応永10年神明宮棟札:栃木市史通史編631ページ参照)

 昭和52年発行「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会)の136ページに次のような興味深いことが記されている。

「これ(宿河原・大宿・田宿)より神明宿へかけて、真言宗長清寺・神明神社等を中心に、門前町に近いものを形成し、相当繁栄におもむいていたのかもしれない。」 「この見解にして誤りなくば、栃木城は神明宿の西、宿河原・大宿・田宿の北方に接して築城計画をなしたものであり、城下町も、その城の西北方に(徳川時代の栃木町)新たに建設を企てたことになる」

 宿河原、円通寺、大宿、田宿、神明宿の集落を結ぶと、あたかも栃木城を取り巻くような集落群が浮かび上がってくる。それに、現在推測しうる最も信頼性の高い復元図「栃木城の復元的縄張図」(小川英世氏作成:概ね赤線内の地域)を落としてみると、次の図のようになる。

栃木城跡(中心部分)及び周辺集落との関係図

 つまり、皆川広照が栃木城を築く以前から、称念寺や長清寺があった宿河原から神明宮のあった神明宿にかけて、複数の寺社が建立されるほどの集村がここに連なってあったということがわかる。

 さらに、栃木市指定文化財になっている3枚の「神明宮の棟札」のうち、最も古い棟札は応永10年(1403年)9月16日のものであり、そこには「正遷宮 天照皇大神 祇園牛頭天王」と書かれている(栃木市史通史編329頁参照)。

 これを信じれば、神明宮が神明宿にあったころ、すなわち、南会津の長沼次郎系の一族が皆川荘に入部してくる以前、15世紀前半からこの地に「牛頭天王」が祀られていたことになる。これにより、明応元年(1492年)の小山成長文書にある「中泉荘 杤木 早乙目屋敷」の位置が、宿河原から神明宿の間にあったのではないかという推測がほぼ確実な感じがする。

 余談になるが、現在も神明宮境内の「境内社」という小さな社のなかに「須賀神社」が祀られている。小山市ほどの賑わいはないが、毎年7月に大通りを中心に神幸祭が行われている。神明宮が現在地に移転してくる前の風習が民衆のなかに息づいているのだろうか。

 こうしたことを総合的に考え合わせると、「明応元年(1492年)9月23日付け小山成長文書」に記されている「杤木」とは、宿河原から神明宿辺りまでの地域、すなわち現在の城内町及びその周辺一帯の地域を総称する名称であり、そのどこかに「早乙目屋敷」はあったと私は考えている。つまり、栃木城築城後、現在まで「城内」と呼ばれるこの一帯の地域は、それ以前は「杤木」という地名であった。そして、当然、そのころの「杤木」は小山氏の勢力範囲だった、ということである。

 このことは、1573年に北条氏が小山氏の支配する粟志川城を攻め取った後に、1579年ごろから皆川廣照がこの地に進出し、「栃木城」築城を開始したという江田氏の主張にもつながっていく。

では、現在の栃木市中心街については、「杤木」ではなかったか、というと、そうではない。

「慶長15年(1610年)正月21日付け皆川志摩守隆庸の願文」(栃木市史編さん委員会「目で見る栃木市史」248ページ)によると、「栃木 新八幡建立」という文言がでくる。廣照の嫡男・隆庸が、改易された翌年、皆川家の復活を祈って密かに八幡宮を勧請したときの願文だ。この八幡宮は、現在(大町4丁目)に存在している。これにより、栃木地中心街の北にある嘉右衛門町付近も当時から「栃木」と呼ばれていたことが確認できる。

皆川隆庸が勧請したとされる八幡宮(栃木市大町)

 さらに、例幣使街道を南に下って巴波川にかかる開明橋のほとりに、隆庸が同年に分祀したという熊野神社(現栃木市河合町)が現在もある。

皆川隆庸が分祀したとされる熊野神社(栃木市河合町)

 隆庸が、現在の栃木市中心街の北の外れに八幡宮、南の外れに熊野神社を祀ったということは、皆川氏が改易される以前から、現在の栃木市中心街(万町、倭町、室町)も「杤木」と呼ばれ、皆川氏は町の整備に携わっていたことがほぼ確定できます。おそらく、室町時代中期には巴波川左岸(東側)から赤渕川湿地帯までの地域を一括して「杤木」と呼んでいたと考えられます。

 しかし、現在の栃木市中心街が宿場として本格的に整備されるのは、徳川家康の棺が久能山から日光山への改葬で1500人もの神柩行列が栃木を通ることになる元和3年(1617年)ころからとなります。なお、栃木が、城内村と栃木町に分割されたのは、承応4年(1655年)阿部対馬守定高による領分検地の際であると伝えられています。

早乙女掃部宛て広照書状の意味するところ

 彦根城博物館には、もうひとつ貴重な史料が残っている「天正8年(1580年)9月15日早乙女掃部宛皆川広照書状写」(鹿沼市史 資料編 古代・中世 336ページ)である。この書状は、皆川廣照が館林長尾氏攻めでの戦功を賞し、早乙女掃部に官途を与えたものだ。その文書の発給年(1580年)が、見事に、江田氏の主張する栃木城築城年(1579年ころ)と重なっている。これは偶然ではない。つまり、早乙女氏は、かつては小山氏に属し、広照が栃木に城を築く90年も前から「中泉荘 杤木」の地を支配する小領主(土豪)であったわけだが、広照が栃木城築城に着手した1579年ころには、早乙女氏は皆川氏の傘下に属し、佐竹氏に従い館林長尾氏攻めに参陣していた、ということにほかならない。言葉を換えて言えば、早乙女氏が皆川氏の傘下に属したことにより、廣照は「杤木」の地に本格的な城を築けるようになった、とも考えられる。

 余談になるが、「第1章1-3  経済基盤としての小山荘と中泉荘 杤木『杤木』」のなかで、早乙女氏は旧小山領・壬生領をそっくり引き継いだ結城秀康に従い、先祖伝来の書を携えて越前にまで赴いたと述べたが、1580年には皆川氏の傘下に入ったはずの早乙女氏が、どうして結城秀康に従って越前まで行ったのだろうか。推測になるが、おそらく、旧小山領または壬生領内に所領を有していた早乙女氏の本流(惣領家)が、結城秀康に付き従ったものと考えている。それを裏付けるものとして、早乙女氏関連の史料「彦根城博物館所蔵文書」のなかに「天正7年(1579年)7月5日付け早乙女藤三郎宛て壬生義雄宛行状」(鹿沼市史資料編33ページ)がある。この文書には、引田(現鹿沼市引田)での戦功により、壬生義雄が早乙女藤三郎に「別井」の地を宛行った、と記されている。私見では、このとき、壬生義雄から宛行われた「別井」とは、栃木城の東・赤渕川左岸(東側)の現栃木市藤田町周辺(別井美濃なる者が治めていた伝承の地、今も別井姓が多い)であったと考えている。1579年に壬生義雄から「別井」の地を宛行われた早乙女藤三郎と皆川廣照から「掃部」の官途を与えられた早乙女掃部とが同一人物の可能性が高いと思っている。そして、早乙女氏一族の所領の一つ「別井」は、1590年豊臣秀吉の宇都宮仕置の後に結城秀康の所領になっていた。

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