歴史探訪 太平大権現と太平山連祥院

上 星宮神社 醤油蔵杜氏講中奉納「太々御神楽」額縁上部
下 星宮神社 新田大炊義重24世源道純書「永代太々御神楽」額縁上部

野州大平山全図から
天目一大神と大前製鉄遺跡
太平大権現とは
神仏混淆の名残・星宮神社と随神門
太平山連祥院跡
水戸天狗党事件
寶樹院太山寺
晃石神社

太平山は、栃木市民にとって幼いころから最も身近で親しみのある山である。地元の小学校、中学校の校歌には、ほとんどといってよいほど「太平山」(おおひらやま)が歌い込まれている。本稿冒頭で紹介した栃木市民の歌~明日(あす)への希望~(栃木市ホームページ)の中では、「変わらぬ思い寄せる神々宿る太平山(おおひらさん)、この地に育そだてられて私は今ここにいる」と歌われている。そうした山にもかかわらず、太平山の歴史については意外と知られていない。いや、「解らない」と言ったほうが的確であるかもしれない。本稿では、改めて太平山を歩きながら、その歴史の一端に触れてみたい。

野州大平山全図から

 江戸時代の絵師・秋山宗栄によって描かれた「野州大平山全図」(稲葉誠太郎氏蔵)というものがある。絵のほぼ中央に「仁王門」とあるのが現在の「随神門」で、参道の石段を登った先、現在の太平山神社の社殿がある位置に「太平大権現」と書かれた建物が描かれている。「仁王門」を少し下った石段の右手に「別当所」と記された建物群がある。しかし、現在はこれらの建物は全く存在しないが、かつてここが、当時太平山の神事・仏事すべてをとりしきる別当寺院「太平山連祥院般若寺」であったことを知る人は少ないだろう。かつては、この「別当所」を取り囲むように山内には、釈迦堂、本地堂、行者堂、太子堂など堂宇や、三光院、多聞院、報恩院、法泉院などの寺院宿坊が建ち並んでいた。「太平大権現」を含む、太平山の社寺すべてが連祥院の統括下に置かれていたのだ。

「野州大平山全図」(稲葉誠太郎氏蔵:同氏著「水戸天狗党栃木町焼打事件」から引用)

 では、「太平山神社」と「太平大権現」とは何が違うのか。別当寺院「太平山連祥院」とは何者なのか、そもそも「太平山」とは何なのか、歴史を紐解いていこう。

 元々、太平山は、足尾山地が南東方向に鋭く突き出た先端部に位置し、古来、土着の山岳信仰の山であったと推測されている。

 日本の多くの山岳信仰の山はやがて仏教と融合する歴史をたどるが、その成立過程を文化人類学者の鈴木正崇氏は論文「日本人の山岳信仰」で次のように説明している。

日本列島で生活する人々の文化を育んできたのは変化に富む山であり、思想や哲学、祭りや芸能、演劇や音楽、美術や工芸などの多彩な展開に大きな役割を果たしてきた。その中核にあったのが山を崇拝対象とする山岳信仰で、山に対して畏敬の念を抱き、神聖視して崇拝し儀礼を執行する信仰形態をいう。(中略)日本の山は里からほどよい距離にあったことで多様な山の信仰を育み、山は人々の日々の暮らしの中に溶け込んでいた。日本の山は個性豊かで強い印象を残す。しかし、山は時には土砂崩れや大洪水を引き起こし、噴火するなど災いをもたらす。山は祈りと畏れの対象であった。(中略)日本の山岳信仰の特徴は仏教との融合である。6世紀に伝来した仏教には山林修行を理想とする考えがあり、僧は山で修行して小堂や寺を建立し、神と仏は融合していった。日本の各地には開山伝承が伝わる。開山とは僧や行者が前人未踏の山に登拝し地主神と出会い、霊地として祀ることで、その後は聖地や修行の場に発展した。

 山岳信仰の代表的な例として、日光三所権現(にっこうさんしょごんげん)が日光二荒山(男体山)、女峰山、太郎山を崇拝する信仰から起こり、足尾山地古峰が原(ごぶがはら)にある古峰神社(ふるみねじんじゃ:鹿沼市草久)も日光入峯(にゅうぶ)への重要な修行地であった。平安時代の正史「日本三代実録」にも見える賀蘇山神社(がそやまじんじゃ:鹿沼市入粟野)と加蘇山神社(かそやまじんじゃ:鹿沼市上久我)は、いずれも足尾山地の尾鑿山(おざくさん:=石裂山)への山岳信仰から生まれたものだ。

 太平山は、こうした日光へ続く足尾山地の山岳信仰の入口でもあったのだろう。鈴木正崇氏は別著「山岳信仰と修験道」春秋社2025年発行40頁で、「山が『結節点』となって外来信仰の仏教が日本に根付いた」とも述べており、山岳信仰を出発点とした太平山が、神仏混淆(神仏習合)の霊山としていかに成立・発展していったかを知る手がかりになるものである。

 では、実際に太平山はどのような歴史をたどるのであろうか。まず、太平山神社公式ホームページには次のように記されている。

太平山神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。

『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827年)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。

 「諸神座記」に記されているという「天目一大神」は、現在は太平山神社の裏山をハイキングコ―スに沿って約5分ほど登っていくと、尾根筋の平らな場所に出るが、そこに「奥宮」(おくのみや)と呼ばれる小さな石の祠に祀られている。もうひとつの神「大物主神」は、現在太平山神社拝殿の並びにある「太平稲荷神社」と「足尾神社」の間の小さな社殿「三輪神社」に祀られている。

「天目一大神」を祀る奥宮

三輪神社(太平山神社境内)

 「三輪山信仰」については、下野国庁跡近くにある大神神社(おおみわじんじゃ)の主祭神も「大物主神」であり、下野国庁跡からは天平元年(729年)と書かれた木簡が出土していることから、下野国の大神神社は8世紀前半には創設されていたと推察されている。したがって、天台宗創設以前から既に「三輪山信仰」は下野国南部に入り込んでいたことになり、太平山開山の伝承どおりに、円仁が来る以前から、「大物主神」が太平山に勧請されていた可能性はある。なお、円仁が開山するに際し、師である最澄の奉祭する三輪神社を比叡山から遷座したとする説もある。(國學院大学栃木短期大学日本文化研究第7号 渡辺瑞穂子氏論文「古代太平山と山岳宗教」124頁令和4年発行参照)

天目一大神と大前製鉄遺跡

 一方、「天目一大神」とはいかなる神か。

 「天目一大神」は「劔宮」(つるぎのみや)とも呼ばれ、製鉄・鍛冶の神とされている。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことに由来するとされている。「天目一大神」が祀られているということは、かつて下野国南部に鉄を製錬する技術をもった集団が存在したことが推測できる。

 『太平山開山記』では、円仁が太平山を開山するに当たって「入山を拒否」する集団が山に存在していたということになっている。

 円仁が入山を果たしたとされる9世紀前半ころに、下野国南部に製鉄・鍛冶技術を持った集団がいた痕跡として、栃木市ホームぺージ第1章「 栃木市の歴史的風致形成の背景」には興味深い記述がある。

(栃木市内)藤岡地域では大前製鉄遺跡群と呼ばれる 22 箇所の製鉄遺跡が存在する。県南地域の拠点的な製鉄遺跡で、鉄生産と鍛冶(鉄器生産)をうかがわせる。時期は9世紀前半から10世紀中葉と思われ三毳山麓窯跡群と大前製鉄遺跡群は時期がほぼ同じで近接するため、同じ勢力(経営者)であったと推察されている。(栃木市ホームページ第1章 栃木市の歴史的風致形成の背景31頁から引用)

 推測の域を出ないものの、大前製鉄遺跡を残したこの集団こそは、慈覚大師の太平山入山を拒否した「天目一大神」を祭祀する集団であり、製鉄技術・窯業技術とともに「天目一大神」を西日本から伝えた集団(氏族)との推測も成り立つのではなかろうか。

 なお、このことは、「天目一大神」が、古来より下野南部の人々が太平山そのものを神と崇める山岳神=地主神(じぬしのかみ)ではなかったということになる。なぜなら「天目一大神」は、大和王権が東国へ勢力拡大させるなかで、西日本から持ち込まれたいわゆる職業神(しょくぎょうしん)のひとつであるからである。

太平大権現とは 

 仏教が山岳信仰の山・太平山に入り込んできた後の「神仏混淆」(=神仏習合)とはどのようなものか。

 そもそも、「太平大権現」の「権現」とは、日本固有の神々を仏教でいう仏や菩薩が「仮の姿」で現れたものとする「本地垂迹思想」(ほんちすいじゃくしそう)に基づく神号である。「権」という文字は「権大納言」「権禰宜」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「れた」ことを示す言葉で、本地(本物)はあくまで仏や菩薩であり、仮の姿で現れたのが日本の神々であるという考え方である。平安時代には一般化したとされる神仏混淆の歴史は、この思想を拠り所に明治初期の「神仏判然令」(神仏分離令)により崩壊するまで1000年以上にわたり日本の民俗文化に深く根付いていた。「野州大平山全図」に描かれている「太平大権現」を中心とするは堂宇群は、山岳信仰を発祥とする神仏混淆の崩壊直前の姿をとどめているものである。

 江戸時代前期、寛永12年(1635年)に書かれた「太平山伝記」の「古法太平三所」には次のようにある。

古法太平三所

御本地虚空蔵
 太平大権現御神躰 天孫太神 明星
  御相殿二神
御本地大日
 熊野大権現御神躰 伊弉冊尊 日輪
  御相殿二神
御本地千手
 日光大権現御神躰 大己貴尊 月輪
  御相殿二神
 右天正十四年(丙戌)ヨリ御同殿也、
 

 これによると、主祭神・太平大権現(=虚空蔵菩薩:こくうぞうぼさつ)の相殿神(あいどのしん)として天孫太神・明星(明星天子)を祀っていた。相殿とは、同じ社殿に二柱以上の神を合わせて祀ることをいう。そのほか、主祭神・熊野大権現(=大日如来)には、伊弉冊尊(いざなみのみこと) ・日輪(日天子)を相殿神として祀り、日光大権現(=千手観音)には、相殿神として大己貴尊(おおあなむちのみこと)・ 月輪(月天子)を祀っていたことがわかる。

 天正14年(1586年)は「第2章4-1天正13年太平山の合戦」でも紹介したが、天正13年7月小田原北条氏の大軍が皆川氏の守る太平山一帯を攻め、多くの堂宇が焼け落ち、大明神の鰐口を持ち去られた太平山合戦の翌年に当たる。したがって、「古法太平三所」に示された祭神の配置は、太平山の堂宇が戦乱で焼け落ちた後の再建時の姿を示すものと考えてよいのではないだろうか。

 太平山神社の拝殿前石段から勅使門を仰ぐ位置に、「三光神社」という扁額が掲げられている鳥居がある。現在の太平山神社における「三光」の意味は、主祭神である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に加えて、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)の二神をあわせた三神を指すものと推察されるが、当然ながら仏教色を排除した形になっている。

 しかし、そもそも「三光」とは、明星、日、月の「三つの光」を意味する言葉で、仏教では、明星、日、月を三光天子(さんこうてんじ:大乗仏教に取り入れられた三柱の星神のこと)と名付けている。明星天子、日天子、月天子の本地仏はそれぞれ虚空蔵菩薩、大日如来、千手観音である。そう考えると、「三光神社」の扁額には、太平山神社が神仏混淆であった時代、星・日・月の三光天子を祀っていたころの名残をわずかに今に伝えているものといえよう。

 ちなみに、一般に、三光天子の中央は明星天子であることが多い。明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩は、無限の智恵と慈悲を持った菩薩といわれている。菩薩の名である「虚空蔵」とは、宇宙の如く広大無限な空間を意味し、陰陽(月・日)を超越した宇宙の理を表す虚空蔵こそが神仏の中心に位置すると考えていたのであろう。

「三光神社」の扁額を掲げる鳥居、奥に見えるのが勅使門

 現在の太平山神社は、虚空蔵菩薩、大日如来、千手観音などの仏像及び鰐口・梵鐘など仏教的なものは一切廃棄している。これはもちろん、明治新政府が慶応4年(1868年)3月から明治元年(1868年)10月にかけて、後に「神仏判然令」(神仏分離令)と言われる一連の太政官布告、神祇官通達等が出されたことに応じたものである。「神仏判然令」は、「仏像をもって神体と致す神社は、相い改めむべし」、「鰐口、梵鐘、仏具等の類は、早々に取り除くべきこと」など、神と仏を判然させる意図であったが、政府の意図とは別に、国学者等の拡大解釈によって、寺院や仏像の暴力的破壊活動・廃仏毀釈が全国的に巻き起こる。その結果として、かつて、太平大権現の表参道石段の中腹にあった太平山連祥院の堂宇群は、仁王門(現随神門)など一部を残して大方が破壊もしくは移転させられてしまった。

神仏混淆の名残・星宮神社と随神門 

 太平山神社境内には神仏混淆時代の名残の建築物として、「星宮神社」と「随神門」が奇跡的に残されている。「星宮神社」は太平山神社拝殿に向かって右側にある方形屋根(ほうぎょうやね)の寺院風建築物で、かつては「釈迦堂」と言われていたもの。天井には龍が描かれている。

手前 太平山神社拝殿の右奥に見えるのが「星宮神社」

神仏混淆時代の名残をとどめている「星宮神社」

大平山全図に描かれた「釈迦堂」

星宮神社内部の天井画

 星宮神社の社殿内には、額縁に「四神」などの装飾彫刻が施されている「奉納額」が2点掲げられている。それぞれ作風は異なるが、どちらも彫刻師の精緻な技が光る。

弘化2年(1845年)2月 醤油蔵杜氏講中奉納額「太々御神楽」(だいだいおかぐら)の額。四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)が彫刻されている

「太々御神楽」額縁上部 青龍(せいりゅう)

「太々御神楽」額縁左部 朱雀(すざく)

「太々御神楽」額縁右部 白虎(びゃっこ) 竹に虎のデザイン

「太々御神楽」額縁下部 玄武(げんぶ)

 次の写真は、新田大炊義重(にった おおい よししげ)24廿四世 源道純書 「永代太々御神楽」(えいだいだいだいおかぐら)と書かれた額である。新田義重は上野国新田氏の祖で、その四男の義季(よしすえ:徳川氏の始祖と称される)が、承久3年(1221年)に世良田(現群馬県太田市世良田町)の長楽寺を創建した。太平山連祥院別当職の舜慈が、世良田の長楽寺に転じたことが墓誌で確認されている。徳川氏は、祖先創建の寺とする長楽寺を重視し、境内の整備や伽藍の修復をしている。舜慈は、太平山連祥院の伽藍修復・整備を行った実績を買われて、同じ天台宗の長楽寺に派遣されたものと推測されている。この額は、そうした長楽寺と太平山連祥院の関係を推測させる貴重な額である。(國學院大学栃木短期大学日本文化研究第7号 小林宣彦氏論文太平山・太平山神社の信仰地域」120頁令和4年発行参照)

 なお、太平山神社では、今も「福神社」の拝殿(星宮神社に向かって左隣の社殿)で毎年4月19日に太々神楽(だいだいかぐら)の奉納が行われている。

新田大炊義重廿四世源道純書 「永代太々御神楽」(えいだいだいだいおかぐら)の額 

「永代太々神楽」額縁上部 龍

「永代太々神楽」額縁左部 金鶏

「永代太々神楽」額縁右部 金鶏

「永代太々神楽」額縁下部 唐獅子

太々神楽が奉納される「福神社」の拝殿 三方がガラス戸になっているものの、基本的に壁のない神楽殿の様式になっている

「福神社」の拝殿内部

 「随神門」(旧仁王門)は享保8年(1723年)徳川八代将軍吉宗によって建築されたもので、門の表には左右大臣像が配置されている。門の裏側を見ると、神仏混淆時代の名残り阿吽形(あうんぎょう)の仁王像が配されている。筋骨隆々とした腕や分厚い胸板、目を見開き、憤怒の表情で見下ろしている姿は、見る者を圧倒させる。

随神門(旧仁王門)栃木市指定文化財 

随神門「太平山神社左右大臣」の左大臣像(神社から見て左手側にある)

随神門「太平山神社左右大臣」の右大臣像②(神社から見て右手側にある)

随神門 仁王像 阿形(あぎょう)

随神門 仁王像 吽形(うんぎょう)

 随神門の天井には、第14代将軍家茂の時代の雪舟11世を唱える五楽院等随(初代磯辺信秀の次男、秀融:ひであき)の筆で、雲を起こして昇天した龍が空高く舞い遊ぶ様子が描かれているという。しかし、残念ながら風雪による痛みが激しく、下の写真にあるように龍の頭と髭などがやっと確認できるくらいの状態になってしまった。早期の修復が望まれる。 

 太平山神社では、文化財保護の観点から星宮と随神門の修復事業を計画しており、第1期事業として、おおむね星宮の改修が完了しているが、随神門の改修はまだ手付かずの状況だ。奉賛金等の募集もしているので、是非、次のホームページをご覧いただきたい。

  https://www.ohirasanjinja.rpr.jp/guid/pdf/bunkazaihogoh22.pdf 

五楽院等随による随神門の天井画(栃木市指定文化財)

随神門の天井画の龍の頭部を拡大

 ちなみに、五楽院等随秀融が描いたとされる「龍雲図」(「八龍神図」ともいう:天保7年[1836年]作)が栃木市内の旧家に残されている。下の写真は大野恵子氏の論文「磯辺家研究ー生み出された彫刻と絵画ー」(文星芸術大学大学院研究科論集 2007年)67頁に掲載されていた等随の「龍雲図」(個人蔵)である。  

五楽院等随の「龍雲図」

太平山連祥院跡 

 「野州大平山全図」にある「別当所」(太平山連祥院般若寺)の堂宇群は、三光院、多聞院、報恩院、法泉院などの寺院を含めすべて建物は跡形もなく破壊されて残ってはいない。あるのは急斜面に石を積み上げて造った平地に石積みや井戸跡などが残るだけである。

近世城郭のような高石垣が残る連祥院別当所跡 写真右下の標識には「水戸天狗党太平山本陣跡」と書かれている

連祥院別当所の堂宇群があったことを示す石垣・石積み跡

 「野州大平山全図」で参道の神橋を渡ったところにある「閼伽井」(あかい:仏前に備える閼伽(水)をくみ取るための井戸)下の水屋。現在は神社なので「閼伽井」ではなく「御神水」と言われているらしい。

朱塗りの神橋は数年前の豪雨により流されてしまったらしく、替わりに丸木橋が渡されていた。参考までに豪雨に流される前の神橋の写真を下に示す。

豪雨に流される前の神橋(太平山神社公式ホームページより)

 現在、アジサイ坂の起点となる参道石段の入口にある「連祥院 六角堂」は明治38年に新たに建立されたもので、かつて太平山全山を統括していたころの連祥院の遺構ではない。

 しかし、六角堂内に安置されている虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう)は、かつて太平大権現と仁王門の間にあった「本地堂」に安置されていた御本尊である。廃仏毀釈の難を逃れ今ここに存在している。

現在の連祥院本堂(六角堂)

水戸天狗党事件

 太平山連祥院が一躍歴史の表舞台に登場したのは「水戸天狗党事件」の時であろう。

 元治元年(1864年)4月13日、大将・田丸稲右衛門(たまる いなのえもん:水戸町奉行)、総裁・藤田小四郎(水戸学者藤田東湖の四男・24歳)らが率いる水戸天狗党の武装集団(筑波山で挙兵したグループなので「筑波勢」とも称される)およそ200人前後が、徳川斉昭(烈公)の位牌を乗せた神輿を奉じて栃木町にやってきた。水戸天狗党の一行は、この日栃木町の西にある太平山中腹にある連祥院関連の各寺院、宿坊、名主宅等に分宿し5月29日まで47日間滞在したのである。

 連祥院は、写真のとおり急峻な土地に高石垣を積み上げた堅固な山城のような場所であったので、武装集団としてば恰好の活動拠点としたのだろう。

 水戸天狗党が太平山に滞在したことを示す遺構は残っていないが、麓の栃木町には「水戸天狗党の乱=愿蔵火事(げんぞうかじ)」として長らく町民の間に憎しみの記憶を残した。

 その「愿蔵火事」とは、同年6月5日、田丸・藤田らが率いる水戸天狗党の本隊の命令に服さず、別行動をとる田中愿蔵(20歳)が率いる約80人からなる一隊(全員散切り頭なので「ザンギリ組」と称されていた)が、栃木町に放火し、町の大半が灰燼(かいじん)に帰した事件である。この時の死者は十数名に及び、焼失した家は約350とも400とも言われ、罹災者数は少なくとも700とされている。(稲葉誠太郎氏著前掲書151頁参照)

 愿蔵は、6月21日にも真鍋宿(現茨城県土浦市)で放火と金品強奪等を行い、天狗党を除名されるが、その暴力的行動は天狗党に対する民衆の恐怖感を増長させ、幕府には武力鎮圧の口実を与えることになった。結局、暴徒化した一隊の首謀者である愿蔵は、同年10月幕府鎮圧軍の包囲のなか、真名畑村(まなはむら:現福島県白河郡矢祭町)の山中で捕縛され刑場にて斬首される。

 一方、水戸天狗党本隊の者たちは、常陸国で部隊を整えた後、武田耕雲斎を新総帥として京都を目指した(天狗党西上)。総勢1千人余と言われる。しかし、北陸路の加賀(現福井県)において頼みの綱としていた水戸家出身の一橋慶喜が天狗党討伐軍の総大将となったことを聞き及び、結局、攘夷の目的が果たせないことを悟り12月に投降し天狗党事件は終息する。天狗党の投降者は823名という。彼らは最終的に元治2年(1865年)2月、幕命により「賊徒」の扱いで敦賀(現福井県敦賀市)にて352名が斬首刑に処せられた。

 天狗党の掲げる尊王攘夷思想に共鳴し、天狗党に参加した栃木町の若者も多数いた。その中に栃木城内の田上弥三郎、広吉の兄弟がいた。二人は志を果たすことなく9月8日に笠間(現茨城県笠間市)で討伐軍に捕らえられ斬首されることになる。(栃木市史 通史編870頁)

田上弥三郎は幼い娘サクを栃木に残していた。弥三郎の辞世の句。

水の辺の実もなき草にさそわれて 今日は笠間の つゆとなりぬる

「水の辺の実もなき草」とは水戸天狗党のことだろう。弥三郎をはじめ向上心が強い若者たちが尊王攘夷の嵐のなかで消えていった。

 天狗党終焉の地・敦賀で斬首に処された者の中にも、初夏の太平山連祥院で47日の時を過ごした前途有為な若者たちも数多く含まれていたことだろう。

 謙信平に並ぶ茶屋「日の出屋」の前の木々の間に「懐昔 勤王士 義旗此地揚」(おもうむかし 勤王の士 義旗をこの地に揚げる)と刻まれた石碑がある。明治14年(1881年)6月、太平山を周遊した元高鍋藩主秋月種樹(あきづき たねたつ:書家、隠居後各地に漫遊して風流を楽しんでいた)が発起人となって建碑されたという。石碑は遥か京都を望むかのように西方を向いて建っている。

「懐昔 勤王士 義旗此地揚」の石碑

寶樹院太山寺 

 太平山神社の表参道石段入口を少し下ったところに、「岩しだれ桜」で有名な「寶樹院太山寺」(たいさんじ:通称「おおやまじ」)がある。この寺には、明治の廃仏毀釈の難を逃れて移された仏像が数多く残されている。

太山寺 岩しだれ桜(栃木市指定 天然記念物)

 太山寺の本堂には「太平山大権現」の東脇「釈迦堂」(現太平山神社の星宮社)に祀られていた「釈迦如来像」(栃木市指定文化財)や、西脇にあった「大日堂」に祀られていた「大日如来像」(栃木市指定文化財)、「護摩堂」に祀られていた「大威徳明王像」(だいいとくみょうおうぞう:栃木市指定文化財)などの仏像が安置されている。

 さらに、本堂の西にある観音堂(栃木市指定文化財)には、三光天子の一つ、月天子の本地仏とされる「千手観世音菩薩像」(栃木県指定重要文化財)が祀られている。像高243㎝寄木造りで、鎌倉時代の見事な仏像である。

太山寺 観音堂(栃木市指定文化財)

千手観世音菩薩像: https://taisan-ji.com/taisanji.html#senjyukanzeon(太山寺ホームページ 外部リンク)

晃石神社

 最後に「野州大平山全図」の左上に描かれている「晃石山」に祀られている「晃石神社」を紹介する。

 現在の太平山神社を起点としたハイキングコースを稜線約40分ほど歩いたところに標高419.1mの晃石山頂(一等三角点)があり、その直下にあるのが「晃石神社」である。

太平ブドウ団地から晃石山(中央)を望む

 この「晃石神社」には、四季折々の豊かな自然を求めて多くのハイカーが立ち寄り、お弁当を広げる風景をよく見かけるが、本殿の精緻な彫刻に気づく者は神社彫刻に関心のある者以外はいないだろう。

 手前が晃石神社拝殿、奥が本殿

 この山の上の小さな神社には、その場所に相応しくないほど立派な装飾彫刻が施されている本殿がある。彫刻師は、江戸後藤流彫刻の流れをくむ磯辺凡龍斎信秀(本家第4代儀左衛門信秀)である。凡龍斎は、大中寺の本殿や開山堂、鹿沼上久我の加蘇山神社拝殿、鹿沼の材木町や銀座1丁目の屋台などの装飾彫刻を手掛けた名工で、この向拝の龍の彫刻の下面には、「行年七十一歳 凡龍斎作」の墨書銘が残っていることから、天保6年(1835年)の作とされている。(関忠次氏編著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」参照)

 筆者としては、本殿の覆屋が写真のとおり風雪に耐えてはいるものの粗末な感じは否めない。文化財保護の面で大丈夫かと心配している。

 なお、晃石神社の本殿彫刻については、Shin-Z(ジー)氏のブログに鮮明な写真が掲載されている。是非、御覧いただきたい。

  https://ameblo.jp/tora-hammill/entry-12731193161.html(外部リンク)

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