歴史探訪⑬加波山事件志士の墓碑
曹洞宗長福寺 大橋源三郎 墓碑
真言宗満福密寺 杉浦吉副 墓碑
曹洞宗長福寺 大橋源三郎 墓碑
明治10年代、自由民権運動の烽火は富張村(現栃木市都賀町富張)にも伝わった。明治16年7月、自由党は党勢拡大のため「運動会」という名目の集会を富張村神楽岡付近の原野で開催された。当時、富張村を含む赤津地区は自由民権運動家を多数輩出した地域で、大橋源三郎はその先駆ともいえる指導者だった。
源三郎は嘉永5年(1852年)10月7日、富張村の豪農の家に生まれた。源三郎が28歳となった明治13年(1880年)10月、塩田奥造を中心とした「下野結合会」に参加し、その主力が「下野有志共同会」と名を改めて再構成されたとき、会の有力メンバーの一人として幹事に選任されている。しかし、民権運動の激化に伴い、明治17年(1884年)9月に予定された宇都宮で行われる県庁開庁式で三島通庸をはじめ政府要人等を爆殺する計画(加波山事件)に連座し、明治19年(1886年)7月3日有期懲役9年の判決を受けた。
源三郎は、加波山で決起する16人とは行動を共にしておらず、県庁開庁式での要人爆殺計画も後から聞かされた立場で必ずしも賛同していなかった。しかし、裁判所は、爆裂弾製造の実行者である鯉沼が真名子山中で爆裂実験をする際にその案内役を務めたことなどから、源三郎をかれらの協力者とみたのだろう。源三郎は服役中の明治25年(1892年)8月5日、刑務所内で病没した。享年39歳であった。
源三郎の故郷・富張の曹洞宗 太醫山薬師院 長福寺には、同志によって明治29年(1896年)に建てられた 大橋源三郎の墓碑がある。

墓碑には次のような碑文が銅板に刻まれている。
自由民権論者源三郎氏は富張の豪農大橋家に生まれ、当時の藩閥政府を倒し、立憲政治を立てんとしたが、明治17年9月加波山事件に連座して、10年の刑、明治25年8月5日牢中に死す、 時に39才 大源院自岳義由居士 大橋氏遺吟 自由に義を取る自由の盟(ちかい) 一片の丹心(たんしん)鏡のごとく明らかなり 微身を粉砕す なんぞ慨(がい)するに足らんや 化して膏雨(こうう)となり蒼生(そうせい)に濺(そそ)がん 明治100年を記念して長福寺刻す ※ 括弧内は筆者加筆
大橋氏遺吟 口語意訳: (自由を願う)一途な心は鏡のごとく曇りなく清らかである 取るに足らない我が身が粉々に打ち砕かれようと どうして嘆くことがあろうか また生まれ変わり 田畑をうるおす雨になって青々とした草木のようにたくましく生きる人民にそそがれよう
長福寺は、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に創建されたと伝わる古刹で、毎年春3月下旬から4月上旬にかけて、樹齢200年を超えるしだれ桜が薬師堂を彩る。周辺には水仙や菜の花も咲きそろう。


真言宗満福密寺 杉浦吉副 墓碑
栃木市旭町に、真言宗の古刹「満福密寺」がある。栃木市民は、通称「満福寺」と呼んでいる。この寺は、鎌倉時代の弘長2年(1262年)創建と伝えられ、元々薗部村(現栃木市薗部町)の山麓にあったが、先に述べた近龍寺や神明宮と同様に、皆川広照の時代に栃木城造営の一環として現在の地に移されたとされている。

満福密寺 大毘盧遮那殿(本堂)
この寺の大師堂内陣向かって右側には、赤・青・黒三体の「三鬼尊」が祀られており、その中央にある青鬼像が鎖につながれていることで知られている。また、近年では栃木市出身の孤高の日本画家・田中一村の墓を訪れる人も多い。

満福密寺パンフレットから

鉄のクサリ部分
しかし、この寺に、自由民権運動の活動家・杉浦吉副(すぎうら きっぷく)の墓があることを知る人は少ない。
吉副は、元福島県相馬藩士で、弘化3年(1846年)に現在の南相馬市(旧上真野村字岡和田)に生まれた。長じて、福島県役員や相馬町戸長などを勤めた後、明治16年(1883年)三春町の三春銀行に勤務。三春町は東北地方最大の自由民権運動の中心地であった。そこで福島県の自由民権運動の指導者だった河野広中の影響を受ける。同年福島県で民権家を拷問や証拠捏造などで根こそぎ逮捕し徹底的に弾圧した県令三島通庸が、栃木県令を兼務し栃木町に赴任してくると、吉副は、河野広中などと共に栃木町に身を寄せ、明治17年(1884年)、鯉沼九八郎などと共に、宇都宮に新築された栃木県庁舎開庁式での三島県令ら高官の爆殺を計画。しかし、鯉沼九八郎が爆弾製造中に誤爆。事は発覚して計画は未遂に終わった(加波山事件)。
吉副は、加波山で決起した16人の一人で、同志の中では最年長の38歳であった。吉副が逮捕された2年後の明治19年(1886年)7月3日に各裁判所の判決が下り、7人が死刑に処せられる。吉副は栃木裁判所で死刑判決を受け、同年10月6日未明、栃木刑務所で刑が執行された。遺骸は、同志らによって引き取られ満福寺に葬られた。
「杉浦吉副君墓」と刻まれた墓碑は、榊原経武ら「下毛有志者」の手によって、刑執行から1年後の明治20年10月3日に建てられたものである。墓碑の側らには、妻トメの小さな墓が寄り添うように並んでいる。

杉浦吉副と妻トメの墓
杉浦吉副は、多くの「獄中作」を遺している。そのうちの一つを紹介する。
自由を得んと欲す 在栃木県未決監 杉浦吉副 皆人と共にみなまし桜花園の関守我は破りて 時期を作らんと欲して成らず 雪の中魁(さぎがけ)て咲く鄙(ひな)の梅色香は人に知られざるとも 法律の罪人となるといえども 道徳の罪人とならず 賤(しず)が身は人の掟(おきて)にさばかるも誠の道に違わざりせば 天下の憂に先だって憂う 民草の心をすうる法(のり)ならば いかでこころを千々になやめん 苛性(かせい)は虎よりも猛し 国のため捨つる命はいとわねど 心に残る民の苦しみ罪不孝より大なるはなし 潔く我身は国にささげしも残る父母思いをぞ思う (高橋哲夫著「加波山事件と青年群像」昭和59年9月発行から引用)
令和元年(2019年)12月、吉副の刑死から130年を経て、吉副に心を寄せる市民の間に犯罪者という汚名からの名誉回復の声が高まり、吉副を時代の先駆けとなった自由民権家として顕彰する「自由民権烈士 杉浦吉副顕彰碑」が建立された。

杉浦吉副顕彰碑 満福密寺ホームページより