歴史探訪⑪栃木の民権家たちの痕跡
栃木市内には自由民権運動家(以下「民権家」という。)の活動を今に伝える建築物等が点在している。その中で代表的なものをここで取り上げた。
神明宮拝殿(元栃木中教院講堂)と近龍寺本堂
大和屋半兵・現「かな半旅館」
紙問屋「中源」の見世蔵
新井章吾から贈られた清水登之生家の門
神明宮拝殿(元栃木中教院講堂)と近龍寺本堂
明治13年(1880年)8月30日及び31日、安蘇、芳賀、下都賀、河内4郡から92名が参加して、県下民権家の統一を図る民権結社「下野結合会」(しもつけけつごうかい)結成のための集会が開かれた。その集会が開かれたのが、栃木中教院講堂で現在の神明宮拝殿(市指定文化財)である。
そもそも「中教院」とは、明治4年(1871年)3月に、明治政府が「神仏分離」の方針を転換し、民衆への国家神道思想(大教)宣布のため、神職と僧侶を共に動員し、大教を普及させるために無給の官吏「教導職」を任命する制度を創設したことに始まる。政府は、教導職養成機関として、東京に「大教院」を設け、その下部機関として各府県に「中教院」を設けた。主要都市には「小教院」も設置された。栃木県においては、当初、明治7年に太平山連祥院(元太平少年自然の家敷地)内に設置された。しかし、表向き神仏合同の布教活動ではあったが、実質的には教化内容が神道寄りであったため、寺院の側の反発などで結局うまくはいかず、明治8年(1875年)4月30日「神仏合同布教禁止の令」が発せられ、大教院は解散された。その後、神道のみによる教導職養成機関として東京に新たに「神道大教院」が置かれ、各府県にも「神道中教院」が置かれることになった。
栃木県では、神明宮(現栃木市旭町)の境内隣接地に新たに「神道中教院講堂」(明治8年11月26日上棟式)が建築された。民権結社「下野結合会」結成のための集会が開かれたのは建築間もない頃のことであった。しかし、明治15年1月に中教院制度が廃止され建物は閉鎖されてしまう。その後、神明宮に引き継がれ、補修されたものが現在の神明宮拝殿である。

神明宮拝殿(元栃木中教院講堂)①

神明宮拝殿(元栃木中教院講堂)②

神明宮拝殿(元栃木中教院講堂)③

神明宮拝殿(元神道中教院講堂)の鰹木状の「京の巻」を載せた鬼板が特徴
神仏合同布教を目指した中教院から「神道中教院」への移行期に建築計画されたものであるためか、神社の拝殿でありながら、全体的に寺院建築の様式を感じさせる全国的にも貴重な建築物である。
神明宮の北西に、浄土宗の名刹・近龍寺がある。近龍寺本堂(市指定文化財)も自由民権運動の演説会や民権結社の会合が開かれたところで、文化3年(1806年)上棟の棟札が残されている。先に見た神明宮拝殿とは、金属板葺と桟瓦葺(さんかわらぶき)、高覧(縁に付けられた転落防止柵)や装飾彫刻の有無など多少の違いはあるが、入母屋造り向拝付きの建物全体の規模・形状はよく似ている。近龍寺は、歌麿と交流にあった狂歌師・通用亭徳成(善野喜兵衛)や栃木市出身の小説家で参議院議員も務めた山本有三の墓があることでも知られている。

浄土宗近龍寺 本堂
「蔵の街」で知られる栃木市大通り(旧例幣使街道)を歩くと、大通りの東側に神社やお寺が多いことに気付く。南から北に定願寺、満福寺、神明宮、近龍寺とほぼ直線状に並んでいる。これには理由がある。戦国時代、現在の栃木市中心部を領有していた皆川俊宗が永禄6年(1563年)のころから、社寺領を巴波川左岸に集中させて与えてきた。俊宗は城下町づくりを意図していたと考えられている。実際に諸社寺の移転がなされたのは、俊宗の子・広照の時代になってからである。広照は、栃木城築城と同時期に、諸社寺を栃木城を取り囲むように建てられたた。近龍寺は天正16年(1588年)、神明宮は天正17年(1589年)、定願寺、満福寺もほぼ同時期に現在地に遷座してきたと推測されている。これらは城下町づくりに欠かせない宗教施設であるとともに、当然、城の防衛線として機能を持たせていた。
大和屋半兵・現「かな半旅館」
明治10年代、栃木県において自由民権運動が本格化したころ、当時県庁のあった栃木町には全国から民権家が集まった。当時、「大和屋」と称していた「かな半旅館」は、彼らの活動拠点となっていた。
国会開設請願運動の盛り上がりをみせていた明治13年(1880年)8月25日、県内統一の民権結社「下野結合会」を発足させるに当たって、塩田奥造ら民権家たちが、志鳥半平が営むこの「大和屋」に集まり事前打ち合わせを行った。塩田らが請願書捧呈のため上京するに当たって、同年10月24日に壮行会をこの「大和屋」で開催している。明治16年(1883年)1月、自由運動会(「補-1 自由民権運動発祥の地・栃木」参照)の開催決定もこの旅館で行った。
野島幾太郎編著「加波山事件」(明治33年12月宮川書店発行 昭和59年9月復刻版)24頁には明治16年7・8月ころの「大和屋」を舞台にした生々しいエピソードが記述されている。著者の野島は新井章吾の腹心とされる人物で自由党員でもあった。野島著「加波山事件」によると、明治16年7・8月ころ、鯉沼九八郎、塩田奥造、榊原経武、横山信六らの諸氏が「大和屋」で会合し密談をしていた。その折りに同志の一人に一封の密書が届いたことをきっかけに、同志の中に「志士の仮面をかぶった犬」が二人いることが発覚。「犬」とは官憲が放った密偵のことで、密書を受け取った同志は「犬」の一人だったのである。もう一人は、密書の差出人で栃木警察署長と連名で名前が記載されていたという。
このころは、ちょうど合戦場や稲葉村などで自由運動会を開催していた時期で、鯉沼ら自由党員は集会条例の規制をかいくぐる「自由運動会」の開催について密談を繰り返していた。まるで幕末の京三条木屋町の「池田屋」や伏見の「寺田屋」のような緊迫した状況が、明治10年代の栃木の「大和屋」で展開されていた。
県庁移転後も、初の衆議院議員選挙を目前に控えた明治21年(1888年)10月20日、旧自由党有志らによる「下野倶楽部」結成の準備会もこの「大和屋」で行われている。足尾銅山鉱毒事件に奔走していたころの田中正造の日記にも「金半」が度々出てくる。田中はこの旅館を定宿としていた。
「大和屋」の玄関は大通り(旧例幣使街道)に面しているが、宿の形状は、間口4間、奥行約38間、町屋特有の間口は狭くても奥行の深い短冊形の敷地になっているため、玄関から裏庭までの土間の部分(通り庭)を通って裏門から近龍寺山門の前に出られるようになっていた。民権家たちが頻繁に利用していたとされる三階建ての離れ「大和楼」は裏門近くにあり、近龍寺本堂や栃木中教院講堂で多人数の演説会や集会を開く際には、格好の宿泊所であり待機場所であった。

かな半旅館 大通り正面入り口

かな半旅館裏口側から近龍寺を望む
現「かな半旅館」には、多くの民権運動家たちが利用した記録が残されている。明治22年1月の「止宿人名簿」には、新井章吾や田村順之助らの名前が見える。

かな半旅館(志鳥正樹家)文書(栃木県文書館 寄託)
残念ながら、「大和楼」をはじめ、当時の建物は残っていないが、旅館全体の構造・雰囲気は、当時の面影を残している。



かな半旅館ホームページ: https://www.kanahan-ryokan.jp/about
紙問屋「中源」の見世蔵
明治13年9月、栃木町の商人が主体的に参加した民権結社「有朋社」が結成された。発起人の中心人物は、3代目毛塚源蔵である。
栃木市倭町には毛塚源蔵の店・紙問屋「中源」の見世蔵(国登録文化財)があり、現在も「中源」の暖簾を守って営業を続けられている。「中源」は、江戸期中頃より紙商を営んできた老舗で、明治期には県内有数の紙問屋となった。栃木市大通り(旧例幣使街道)の東側に位置し、現在の見世蔵は明治41年(1908年)に建てられたものだが、屋根の軒は出桁造(だしけたつくり:軒先を深くするため、腕木(うでぎ)を外に長く突出させ、その先端部分に桁を渡した構造)で支えられ、軒先は蛇腹状に3段になった三重蛇腹、高い箱棟(屋根の頂上部を箱状に板で覆い漆喰などを塗り重ねて作ったもの)など明治末期の重厚な外観を今日まで伝えている。敷地形状は奥行の深い短冊形になっており、かな半旅館同様、ほぼ江戸時代前期に栃木町の町割り(店屋敷の割り付け)ができた当時のまま、現在に受け継がれている。

写真中央 紙問屋「中源」の見世蔵(現毛塚紙店)

出桁造と三重蛇腹の軒

家の格を表すといわれる高い箱棟
新井章吾から贈られた清水登之生家の門
栃木の民権家の先駆者の一人・新井章吾は、県会議員を経て、第1回衆議院総選挙以来連続6期当選、通算7期代議士を務めるなど、生涯にわたり政治の世界に身を投じた人物だが、新井家は、章吾の長年にわたる政治活動のためか吹上村の家屋敷すべてを散財し、現在の栃木市吹上町には豪農だった新井家の当時をしのぶものは何も残っていない。ただ一つ、新井家から贈られた門といわれるものが栃木市大塚町の画家・清水登之の生家に平成28年(2016年)ころまでは残っていた。(志鳥正樹氏著「清水登之没後70年記念 郷土の人物と栃木市懐古」38頁参照)
志鳥正樹氏前掲書の記載によれば、その門は「四脚門、銅板葺き」で、清水登之の実妹鈴木サキさんの話では、「明治38年ごろに持ってこられ、はじめは瓦葺きであった」とある。清水登之の生家も、新井章吾の生家と同様に裕福な豪農であり、登之の母・ムラは民権家で郡会議長も務めた鈴木浅太郎(吹上村)の実妹であった。門を贈った時期は、新井が1期落選した後、最後の7期目当選を果たした明治37年の翌年ころであることから、清水家が吹上村の新井になんらかの支援をしたことの返礼として贈られたものかもしれない。志鳥正樹氏前掲書には貴重な門の写真も掲載されているが、残念ながら今は取り壊されて残ってはいない。
しかし、実は、栃木市出身の洋画家・清水登之の絵「生家」(栃木県立美術館所蔵)に、その門と思われるものが描かれている。この絵は、清水登之がフランス・パリから日本に戻った昭和2年(1927年)に、大塚(現栃木市大塚)にある実家を描いた作品であるが、写真と見比べると、写真の門は「銅板葺き」であるのに対し、絵の門は屋根の陰影から明らかに降棟(くだりむね)を持つ「瓦葺き」である。これは鈴木サキさんの証言とも一致し、新井章吾から贈られたとされる瓦葺き門を描いていることに間違いない。
新井章吾は、明治39年(1906年)旅先で倒れ、10月16日に東京の自邸で死去する。51歳であった。絵は新井の当時の状況と清水家との関係を無言で語りかけており感慨深い。清水家の屋敷も今はない。

栃木市立美術館企画展「没後80年清水登之」52頁

志鳥正樹氏著「清水登之没後70年記念 郷土の人物と栃木市懐古」37頁
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