歴史探訪⑨江戸彫り後藤流彫刻師と田中一村

江戸彫り後藤流彫刻師
彌吉一家と栃木の支援者たち

江戸彫り後藤流彫刻師

 「昭和の若冲」ともいわれる日本画家・田中一村は、明治41年(1908年)現在の栃木市に生まれた。社寺彫刻の研究で知られる関忠次氏著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」76頁によると、一村の父・彌吉(稲村)は木彫家で、当時の栃木町(現栃木市)で建築・彫刻の大家とされた渡辺正信に師事していたとされている。

 関忠次氏の著書によると、彌吉が師事した渡辺正信は、江戸彫り後藤流彫刻師一族の初代とされる後藤茂右衛門正綱の弟子で、2代目後藤茂衛門を継いだ渡辺喜平治正道(初代喜平治)を祖として、正道の子・渡辺宗国(2代目喜平治、榎本八坂神社本殿・定願寺御成門を彫刻)を経て、宗国の子・渡辺正信(3代目喜平治、栃木石町住、本町長清寺・泉町雲龍寺・新井町天満宮・下野市上吉田天満宮、小山市上泉町熊野神社・神明宮神輿等を彫刻)へと続く彫刻師一族の3代目である。田中一村の父・彌吉もその系譜にあったということになる。なお、渡辺正信と彌吉との年齢差が64歳であることから、師弟関係にはなかったのでは、という見解もある。(田中一村記念会編著「田中一村画伯の出生地を探るー父・彌吉(稲村)の調査からー」22頁)

栃木市新井町天満宮本殿彫刻(渡辺正信作)

下野市上吉田天満宮本殿彫刻(渡辺正信作)

神明宮大殿

神明宮大神輿(大殿)


 同時代に大平町富田宿には、磯辺信秀(初代儀左衛門)を初代とする彫刻師集団・磯辺一族がおり、江戸彫り後藤流彫刻師集団として、県内はもとより、北関東各地の社寺に名作彫刻を多数残しており、渡辺一族との共同制作もある。磯辺一族のなかには、日光東照宮五重塔の再建に当たった後藤周次(磯辺正秀、日光東照宮五重塔再建時の棟梁)も輩出している。鹿沼、宇都宮、小山などの彫刻屋台には磯辺一族が手掛けた名作も多い。
 なぜ、当時の栃木町や富田宿がこれだけたくさんの名工を輩出できたのだろうか。栃木町は、江戸時代初期から江戸と日光に直結する陸運と舟運による物資の集散基地であり、東照宮造営・修理にも深く関われる立地にあった。加えて、明治4年の廃藩置県までは田崎早雲を生んだ足利藩の領地でもあったこと、南画家・小室翠雲の出身地館林は明治9年まで栃木県の一部であったことなども、栃木町の文化芸術風土の発展に大きく影響していたことは間違いない。

彌吉一家と栃木の支援者たち

 栃木町に県庁が置かれていた明治12年(1879)に定願寺で開催された展示会に喜多川歌麿の肉筆画三部作「雪月花」が出品されたとされている。県庁が置かれていた明治初期(明治4年~明治17年)から中期にかけての栃木町は、江戸時代中期から蓄積された経済力に裏打ちされ、芸術家を育てる高い文化的精神風土があったようである。そうした風土がまだ残る明治末期に、田中一村の父・彌吉(稲村)は上京を決意した。

 彌吉一家が実際に東京に転居したのは大正3年1月28日である。彌吉は31歳、一村は5歳6か月の子どもだった。彌吉が一家を挙げて上京した理由については、栃木に残る次の史料「稲村送別の彫刻会開催の通知」から明らかになっている。

 この史料によると、彌吉(稲村)一家が上京する一年前の大正2年1月に、当時、栃木町長であった望月磯平(古久礒店主)、栃木商業会議所会頭であった毛塚源蔵(毛塚紙店主)らそうそうたるメンバーが幹事となって、栃木のいわゆる旦那衆33人が発起人に名を連ねて、芸術に志す青年・彌吉を支援する会を開催しているのである。彌吉の上京理由は、彫刻の大家・加納鐵哉(かのうてっさい)に師事するためであった。当時の栃木町には芸術家を育てる高い文化的精神風土があったということだろう。ちなみに、栃木の旦那衆は、創設された文展で3回連続受賞した橋本邦助(明治17年栃木町生まれ。紙類商・橋本理平の子。)も支援していた。

 この時幹事となった望月磯平は、文化人との親交も深く、栃木の文化の発展にいくつもの足跡を残している。大正7年(1918年)11月、陸軍特別大演習の大本営が当時の栃木中学校(現県立栃木高等学校)に置かれることに際、望月は、有志とともに当時の日本画壇の大家・小室翠雲を招き、大正天皇が宿泊する行在所(あんざいしょ)を飾る屏風(6曲1双)の山水画15組を描かせている。行在所は、現在の栃木高校記念館(御聖蹟)である。驚くべきことに、小室翠雲に屏風制作を依頼した15名の旦那衆のなかで11名が彌吉の上京の際に支援する会を開催したメンバーであった。(田中一村記念会編著「ふるさと栃木から上京した 田中一村の東京での小・中学校時代」令和2年発行 23頁参照)

国登録有形文化財 栃木高等学校記念館(御聖蹟)(栃高同窓会ホームページより) 

 大正10年9月の関東大震災で彌吉一家も焼け出されたとき、彌吉一家は、一時的に麹町にある小室翠雲邸の離れに住まわせてもらっている。彌吉が上京して7年以上が経つが、彌吉と翠雲との関係に、栃木の旦那衆が深く関わっていることを物語るものであろう。栃木の支援者たちがいなければ、彌吉の上京も実現できなかった可能性もある。「昭和の若冲」ともいわれる日本画家・田中一村も存在しなかったかもしれない。

 木彫師である彌吉の子・田中一村は、父と同じ彫刻の道ではなく、絵画の道でその才能を開花させた。田中一村の絵には、栃木の支援者たちの努力と、かつて栃木に開花した細緻密で繊細華麗な彫刻群を手がけた名彫刻師たちのDNAがしっかりと刻み込まれていると感じるのは私だけではあるまい。

田中一村《椿図屏風》昭和6年(1931)千葉市美術館

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