歴史探訪⑧喜多川歌麿と歌人 石塚倉子

喜多川歌麿の浮世絵版画で紹介されている「下野室八嶋倉子女」とはいかなる人物だったのか、そして、歌麿とはどのような関係にあったのか考察する。

歌人 石塚倉子
   歌麿と栃木の関係から
   倉子の花短冊と奉納額

歌人 石塚倉子

 喜多川歌麿の浮世絵版画に「近代七才女詩歌」(きんだいしちさいじょしいか)という美人画がある。7人の才女のひとりとして「下野室八嶋倉子女」が紹介されている。

歌麿筆 近代七才女歌集 下野室八嶋倉子女(東京国立博物館所蔵)

「下野室八嶋倉子女」とは江戸時代中期に現在の栃木市藤岡町富吉で生まれた石塚倉子のことである。
 その美人画には倉子の和歌が添えられている。

現代語訳:吹く風に送られてきた(春の)風のたよりは 誰の里からのものだろうか (私の)庵に(春心を誘う)梅の初花の香りがただよっていることよ    


 この歌(以下「梅の初花」という。)に誘われて、藤岡町富吉にある倉子の生まれた家を訪ねてみた。国道50号線の鎧ヶ淵交差点を南下し1.5kmほど行くと、藤岡町富吉の集落に入る。ちょうど梅の花が富吉の里に春を告げていた。

石塚倉子の生家①(個人宅)

石塚倉子の生家②(個人宅)


 歌麿は栃木町に度々訪れたと考えられているが、倉子との面識はまずないと思われる。なぜなら、倉子は、貞享3年(1686年)10月に生まれ宝暦8年(1758年)12月、73歳で没している。一方の歌麿が生まれたのは、宝暦3年(1753年)とされているからである。
 では、なぜ、歌麿は逢ったこともない下野国富吉という鄙の里にあったひとりの女流歌人・倉子のことを知り得たのだろうか。

 倉子は江戸時代中期に舟運でにぎわう巴波川下流域の富吉(現栃木市藤岡町富吉)の豪農の家に生まれた。石塚家の系譜(栃木県立栃木高等女学校々友会編「石塚倉子遺著 室八嶋」昭和14年3月発行掲載)によると、石塚家は戦国時代常陸国小田城主であった小田氏一族の末裔らしい。小田氏没落後、江戸時代に皆川氏の客分となり、和歌を教えた功により皆川氏の領地であった富吉の地を拝領し居住するに至ったと伝えられている。(石塚倉子研究部会著「うずま川江戸中期の女流歌人 石塚倉子遺著『室の八島』」3頁、「藤岡町史」135頁参照)小田氏一族は、鎌倉殿の13人のひとりで下野国の名門宇都宮氏の系譜を引く八田知家を祖とし、宇都宮氏とならび代々和歌を尊ぶ家柄でもあった。石塚家の伝承が正しければ、石塚家は、小田氏没落後から皆川氏が改易される慶長14年(1609年)までの間に皆川氏の客分となったものと推定される。


 豪農として知られた石塚家では、文人墨客との交流が多かったという。江戸の国学者荷田在麿(かだの ありまろ:春満の甥で春満の養子になる)は、倉子の歌集「室八嶋」の序文の中で「かかる鄙に、かかるたぐひは、流れての代に、いといと稀なるべし」と称賛している。また、倉子の家を訪れたことのある儒学者服部南郭(はっとり なんかく)は、石塚主母氏詠歌跋(いしづかのあるじのぼしのえいずるうたのばつ)の中に、「観其所詠国風 玉質金聲成章盈簡」(その詠ずるところの和歌を見るに、天性の質と高雅な言葉で章を成し簡にみつ)と称賛している。(石塚倉子研究部会著前掲書16頁参照)こうしたことから察するに、倉子は当時から名の知れた歌人であったと考えられる。

 栃木市立文学館(旧栃木町役場:栃木市入舟町)には「室八嶋」の原本が常設展示してある。

栃木市立文学館(旧栃木町役場:栃木市入舟町)

栃木市文学館所蔵 石塚倉子「室八嶋」(広報とちぎ令和7年3月号29頁)


 石塚倉子研究部会著前掲書では、石塚倉子の歌集「室八嶋」全10巻は、亡くなる2年前の宝暦6年(1756年)、江戸書林須原屋茂兵衛(すはらや もべい)方から出版されたとされているとしているが、国立公文書館や天理大学附属天理図書館に現存する原本では、「書林 大坂心齋橋順慶町 澀川清右衛門/京堀川錦上ル町 西村市郎右衛門/江戸本町三町目 西村源六」と記されている。版元が異なる理由については、国立公文書館発行『北の丸』第48号「当館所蔵の「絵入り本」解題④」99頁に次のような説明がある。

本書(室八嶋)の初版の版元は須原屋茂兵衛。本書(昌平坂学問所旧蔵 室八嶋)はその後刷で三都版。大坂の渋川清右衛門・京の西村市郎右衛門共に上方を代表する巨大書肆(しょし:本屋のこと)である。江戸の西村源六は文刻堂と号した書肆で、元禄頃から幕末まで活動した。

 なお、歌麿と親交の深いとされる版元の蔦屋重三郎(1750年2月13日~1797年5月31日)は、宝暦6年の時点ではまだ6歳の子供であった。後に重三郎が吉原をテリトリーとして、庶民も楽しめるエンターテインメント性のある黄表紙、洒落本、錦絵などを扱う版元として江戸の町を風靡するのはずっと先のことである。

歌麿と栃木の関係から

 さて、多くの文人墨客が訪れたとされる石塚家であるが、歌麿との直接的な関係を示す史料はない。
 しかし、歌麿研究で知られる渡辺達也氏の著書「新考証 歌麿と栃木」(平成3年10月発行)に興味深い記事がある。歌麿と交流があったとされる通用亭徳成(つうようてい とくなり:釜屋4代目・善野喜兵衛)と同時代の栃木の狂歌師・田畑持麿(たばた もちまろ)についてである。
 狂歌名・田畑持麿は、実名.・渡邊源左衛門といい、四方赤良(よものあから:大田南畝、蜀山人)から直接狂歌の添削を受ける師弟関係にあった。今に残る60首の添削状から、源左衛門は、栃木町における狂歌壇の主宰でもあり赤良とは特別の親交があったことが確認できる。(「新考証 歌麿と栃木」128頁)
 源左衛門と通用亭徳成との関係は、徳成が質屋家業を相続したことを源左衛門は朴亭(ぼくてい)という俳名で、狂歌に託して前途を祝っていることからも親密な関係であったことがうかがえる。このころの源左衛門は栃木町狂歌界の先輩格で、徳成は若輩者という関係ではあった。
 渡邊源左衛門の菩提寺・天台宗定願寺にある墓碑銘文によると、源左衛門は「諱止信」「石塚専左衛門恒弘之四男也 渡邊芳定君養以為嗣」「享年六十八以文化二年三月二十二日病卒」とあり、実名は「止信」といい、石塚専左衛門恒弘の四男で石塚家からの養子であり、文化2年(1806年)に68歳で病没したという。(「新考証 歌麿と栃木」141頁)
 歌麿が亡くなったのは文化3年(1807年)9月であるから、源左衛門はまさに歌麿と同時代の人物であり、石塚家から養嗣子として栃木町の渡邊家に来た。源左衛門の実家である「石塚家」と石塚倉子との関係を示す確たる史料はない。しかし、源左衛門の墓碑には妻の與志(よし)は、「白鳥村(現小山市白鳥)金澤傳内の女(むすめ)」とある。白鳥村は巴波川を通じて富吉とは近接している村であり、いずれも巴波川舟運に縁のある土地柄でもあることから、源左衛門の実家の「石塚家」は、富吉の石塚倉子の親類縁者である可能性もある。


 ここで歌麿の有名な肉筆画三部作「雪月花」の「品川の月」を思い出してほしい。かつてNHKテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」でも取り上げられたが、品川の海の見える楼閣の二階で、10数名の女たちの戯れている歌麿の傑作であるが、その画中右上にある扁額(へんがく)に四方赤良の狂歌が描かれている。

喜多川歌麿《品川の月》高精細複製画 原本:フリーア美術館所蔵 天明8(1788)年頃

NHK「歴史秘話ヒストリア」 四方赤良の狂歌が描かれている扁額


 さらに興味深いことに三部作「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」には、通用亭徳成(善野家)の家紋「九枚笹」(くまいざさ)が各所にさりげなく描き込まれている。「品川の月」では最前列右から2番目、立ち姿の女性が着る着物の左肩に「九枚笹」の家紋が描かれている。

 さらに、歌麿の描いた錦絵に、通用亭徳成の狂歌が記されているものも複数ある。

喜多川歌麿「扇屋内 瀧川」大判錦絵 寛政3年 版元:蔦屋重三郎 シカゴ美術館

 この歌麿の錦絵「扇屋内 瀧川」には、右上に「杤木 通用徳成」と書かれた狂歌が短冊形に記されている。「扇屋」とは、当時、吉原江戸町一丁目にあった高級妓楼「扇屋」のことで、蔦屋重三郎の出版した「新吉原細見」寛政7年版5頁下段にも「扇屋右衛門」と載っており、最高級な遊女として「よびだし 滝川」の名が記載されている。ちなみに、2024年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、俳優の山路和弘が扇屋宇右衛門の役を演じている。

台東区中央図書館蔵 「新吉原細見」寛政7年版

 徳成の狂歌は、遊女「瀧川」にちなんで「ほれて行 早瀬の上の瀧川は のぼれるこひの名にや有けん」とある。小倉百人一首にある有名な和歌「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」の「本歌どり」である。滝川を登る「鯉」と遊女瀧川との「恋」模様を掛けて詠んでおり、狂歌の内容から、徳成は、瀧川のなじみ客とも受け取れる。(田辺昌子著「もっと知りたい蔦屋重三郎 錦絵黄金期の立役者」2024年発行38頁参照)

 この他にも有名な「三味線を弾く美人」にも徳成の狂歌が描かれている。ちなみに、その狂歌は「おもひそむ身そはつかしや 声かはり 寝ひえか風と 母のとふまて」とあり、恋に苦しむその声を、母親が「声変わりか風邪か」と心配するという内容である。(田辺昌子著「もっとしりたい喜多川歌麿 生涯と作品」2024年発行 68頁参照)

喜多川歌麿 文化元年~3年(1804~06)頃 ボストン美術館

 渡辺達也氏は、田畑持麿(渡邊源左衛門)と通用亭徳成(善野喜兵衛)の関係、徳成と歌麿の関係、歌麿と四方赤良(蜀山人)との関係、赤良と持麿の関係という図式からして、「持麿(源左衛門)は歌麿との関わりも当然あったとみなければなるまい」と指摘している。(「新考証 歌麿と栃木」143頁)であれば、歌麿と石塚倉子とを結びつけたのは、幕府に近い儒学者服部南郭や国学者荷田在麿らとの親交ルート(武家文化ルート)ではなく、持麿(源左衛門)を介して結び付く四方赤良や通用亭徳成らとの親交ルート(町人文化ルート)と考えるのが自然であろう。
 歌麿の描いた美人画「下野室八嶋倉子女」の版元は、丸に村の印から村田屋次郎兵衛であることが確認できる。おそらく享和年間(1801年~1804年)頃の作と推測されている。であるならば、美人画「下野室八嶋倉子女」は、歌集「室の八島」の出版を手掛けた子の邑人(さとんど:1709年生)の関係ではなく、当時高齢ではあるが存命中であった持麿(源左衛門)が、通用亭徳成などのつてを通して石塚倉子の和歌入りの版画の制作を歌麿や版元の村田屋に持ち掛けたとの推測も成り立つ。

 しかし、別の考え方もある。歌麿の絵と掲載されている詩歌の内容は全く関連性がない。しかも母子絵である。これは何を意味するのだろうか。「近代七才女詩歌」には、倉子のほかに4人の女性歌人の絵が知られているが、ほとんどが母子絵である。そうした母子絵を描いた理由は、寛政の改革の取締りで美人画出版に厳しい規制が加えられ、その抜け道として出版されたものであるとの見解もある。(『浮世絵に見る江戸の子どもたち』くもん子ども研究所編2000年 掲載 稲垣進一論文参照)つまり、歌麿や版元サイドが、幕府の規制を逃れるために、母子絵を描き、狂歌ではなく和歌や漢詩などを掲載したと考えられるのである。

 さらに、「近代七才女詩歌」には、倉子のほかに4人の女性歌人(井上通女、矢部正子、加賀の千代女、油谷倭文子)のいづれも「近代七才女詩歌」出版時には亡くなっている。そもそも「近代七才女」の「近代」の意味は、時代区分ではなく「現在ではない近い過去」を意味する古語でもある。江戸時代にはすでに亡くなっている人の著作物に対する権利(著作権)といった概念はないであろうから、版元サイドが、過去の歌人の詩歌を選んで、遺族や関係者からの承諾を得ずに歌麿の絵に刷り込んだということも十分可能性はある。しかし、そうだとしても謎が残る。冒頭で紹介した「梅の初花」の和歌は、倉子の子・邑人が出版した倉子の歌集「室の八島」全10巻313首(古谷知新編「江戸時代女流文学全集」第4巻大正7年~8年刊の複製)や次に紹介する現存する「花短冊」や「奉納額」の中に存在しない。歌麿や版元サイドは「梅の初花」の和歌をどのように入手したのだろうか。

 倉子は、晩年に「室八嶋」の他に「楓百首」(宝暦5年刊)などの著作があるとされており、今後、歌麿と栃木そして石塚倉子との関係がわかる新たな資料の発見、さらなる研究が待たれる。

倉子の花短冊と奉納額

 倉子は晩年に、金地の短冊を用いて自作の和歌を自筆で書き、これに四季折々の花鳥の絵を切り取って張り合せた美しい「花短冊」(はなたんざく)を作っている。全部で100首作ったらしいが、散逸したものが10数首、破損したものもあり、現存しているのは5首のみである。 (栃木県立栃木高等女学校々友会編前掲書、石塚倉子研究部会著前掲書19頁参照)

 現存する「花短冊」5首は、どれも歌集「室八嶋」に掲載された和歌の中から選んで書き付けたものであることから、散失・破損した「花短冊」のなかに、歌集「室八嶋」に掲載されていない幻ともいえる「梅の初花」の和歌があった可能性は低い。「花短冊」5首は、現在、栃木市立美術館(栃木市入舟町)が保管(個人蔵)しており、令和6年には、企画展「夏にたのしむ器 竹のかたち×陶のいろ」で展示・公開された。

花短冊5首 栃木市立美術館(栃木市入舟町)

 倉子は32歳の時、富吉村の鎮守・住吉神社に、自分の詠んだ歌を木額に刻み奉納している。また、太平山の西・晃石山の南麓にある清水寺(せいすいじ)にも自作の和歌5首を彫り込んだ木額を奉納している。奉納額は、清水寺の観音堂内に掲げられている。清水寺の観音堂は、「滝の観音堂」とも言われ、お堂の脇に滝水が落ちている。

 たたせしな 清きながれを山寺に あふげば高し 瀧のみなかみ

清水寺は、ロウバイの美しい寺としても有名である。ロウバイの見ごろは1月中・下旬である。

 

 最後、石塚倉子遺著「室八嶋」の巻頭の歌一首を飾る短歌を紹介したい。

 春くれば 室のやしまのけふりさえ  けさや霞に たちかわるらん

現代語訳: 春が来たので、「室の八島」の(恋の煙)でさえも、今朝は春につきものの霞に立ち替わっているでしょうよ

石塚倉子の絵(藤岡歴史民俗資料館)

石塚家歴代の墓所 一番手前が倉子(玖羅)の墓  墓には服部元雄(南郭の義子)撰の銘文が三面にわたり刻まれている。素直に手を合わせずにはいられない。

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