歴史探訪⑤長尾顕長の刀「山姥切国広」

 由良・長尾兄弟と皆川広照との関係については、「3-3 北条・徳川同盟と広照」の「決戦回避工作」のなかで述べたが、ここでは兄弟のひとり長尾顕長(ながおあきなが)に関連して、名刀「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)について紹介したい。


 「山姥切国広」は、2024年に足利市文化財団が取得・所蔵している日本刀である。
 その銘に、表銘「九州日向住国広作」、裏銘「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」とあり、天正18年(1590年)2月に、当時足利城主であった長尾顕長が、刀工・堀川国広に作らせたものである。

 一方、徳川美術館には、「本作長義」(ほんさくながよし)と呼ばれる備前長船長義作・の刀がある。その銘には、「刀 銘 本作長義天正十八年庚刁五月三日二九州日向住国広銘打 天正十四年七月二十一日小田原参府之時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持」とあり、銘によると、「本作長義」は天正14年(1586年)7月21日に「屋形様」である北条氏直から長尾顕長へ臣従儀礼の一環として贈られた刀であり、その後、天正18年(1590年)5月3日に刀工・堀川国広が銘文を切ったものであることがわかる。
 「本作長義」は、南北朝時代の備前長船派の刀工である長義の代表作であり、傑作として知られる。
 「山姥切国広」と「本作長義」の関係は、原作刀剣(本歌と呼ばれる)である「本作長義」を写し取って作った複製品(写しと呼ばれる)が「山姥切国広」ということになる。

 以上二振の刀の銘と史料等とを重ね合わせると、豊臣秀吉の小田原攻めを目前に控えた天正17年末から18年頭のころ、小田原在府となっている長尾顕長が、刀工、堀川国広に命じて、主君北条氏直から天正14年7月21日に拝領した「本作長義」の「写し」(山姥切国広)を作らせ、天正18年2月に「写し」にその銘を打たせたことになる。
 その後、天正18年3月に豊臣秀吉の大軍勢が小田原に攻め寄せ、4月初めに小田原城は包囲されるなど戦況極めて不利な状況の下、同じく堀川国広に命じて、氏直から拝領した「本作長義」に、その由緒を伝える銘を切らせたということだ。
 おそらく、長尾顕長は、小田原城の落城、そして自分の死をも覚悟して、「本作長義」の「写し」を作らせ、また、その由緒を後世に伝えるため、両刀に銘を切らせたと考えられる。

 「山姥切」の名は、戸隠山(現在の長野県)で山姥(化物)を退治した刀であることから、後世、その名が付けられたと伝えられている。
 本歌「本作長義」、写し「山姥切国広」両刀ともに国重要文化財に指定されている名刀である。長尾顕長がなぜ小田原在府となったのか、北条氏直からなぜ「本作長義」を拝領したのか。そして、顕長が堀川国広にその「写し」を作らせた時の想いを感じ取りながら、戦国の世の証人として両刀を鑑賞したい。

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