歴史探訪③河原田合戦と升塚

 栃木市都賀町升塚に「河原田合戦の戦没者塚」と伝わる塚がある。
 塚には「升塚」と書かれた石碑があり、碑裏には「合戦時の戦死者を埋葬し 村人が升で運んだ土で塚ができたので升塚と呼ばれ やがて地名にもなった」とある。また、この近辺には「合戦場」と呼ばれる地名も存在している。


江戸時代の軍記物「皆川正中録」は、「河原田合戦」のことを概ね次のように伝えている。

大永3年(1523年)11月10日、宇都宮忠綱の軍勢が南摩を発ち河原田へ押し寄せ、迎え撃つ皆川宗成と嫡子成勝(しげかつ)は深沢峠を越え河原田に布陣。両軍は合戦に及んだ。皆川方には小山・結城・壬生氏が加勢。壬生勢は壬生口を固め、小山・結城勢は宇都宮勢が占拠する鹿沼を攻めた。河原田の戦況は宇都宮勢が皆川宗成及び宗成の弟・平川成明を討ち取るなどして宇都宮勢が優勢のうちに進んだ。その後小山勢の
援軍により宇都宮勢は劣勢となり撤退した。

しかし、残念ながらこの地で「河原田合戦」があったことを裏付ける確たる史料はない。とはいえ「河原田合戦」は軍記物「皆川正中録」作者の完全な創作であると断ずることもできない。

 江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」146頁のなかで、「河原田合戦」は、大永3年8月(1523年)に宇都宮領内で起きた猿山合戦(結城政朝が宇都宮城主宇都宮忠綱を攻撃した戦い)の後、忠綱派であった壬生綱房を頼って鹿沼城に逃れた宇都宮忠綱に対して、結城氏が壬生領内への侵攻をもくろんでいたとし、(「小田部好伸氏所蔵文書」)このことから、「時期的、かつ状況的な一致から、8月の猿山合戦に続いて、同年11月にも河原田で宇都宮忠綱の軍勢と結城氏らの軍勢が戦った可能性は高い。」としている。
 たしかに、江田氏の主張のとおり古河公方足利高基書状(「戦国遺文」古河公方編545小田部好伸氏所蔵文書)には、「結城その外も壬生口へゆるぎ出でて相挊ぎ(あいかせぎ)候由 其聞候」(現代語訳:結城氏その他の軍勢が、壬生の境にゆっくりと出てきて押し上げたと聞く)との一節がある。加えて、「寛政重修諸家譜」の皆川宗成の欄には「壬生において戦死す」とあるので、皆川氏が結城氏方に参陣し、皆川領と壬生領の境界付近で宇都宮方と合戦になり宗成・成明兄弟が討死した可能性は十分にあるが、それが現在の栃木市川原田近辺であったかどうかはわからない。

 筆者としては、皆川正中録は、江戸時代に書かれた軍記物の性格上、信憑性に欠けることは承知のうえで、その記述にそって「河原田」の場所を特定してみたい。
 皆川正中録では「皆川宗成と嫡子成勝父子は深沢峠を越えて河原田に布陣した。宇都宮右馬権守忠綱は(中略)南摩の城を出発し、怒涛のように河原田へ押し寄せ、先に布陣している皆川勢の前でホラ貝・陣鐘・太鼓を鳴らし(中略)会戦の火蓋を切った。」(小松義邦口語訳 別本「皆川正中録」25頁)とある。つまり、皆川正中録が描く「河原田」は南摩(現鹿沼市南摩)と深沢(現栃木市都賀町深沢)の間にあったことになる。おそらく作者は、現在の鹿沼市と栃木市の境界付近を流れる思川(旧小倉川)の沿いの低湿地帯を「河原田」と称して合戦の舞台にし、この軍記物を書いたと思われる。
 それならば、現栃木市川原田に隣接する都賀町「合戦場」の地名は皆川正中録の「河原田合戦」とは関係ないのだろうか。
 「都賀町史」によると、慶長元年(1596年)結城秀康が治めていた時、日光山御伝馬を「合戦場村」に命じた(都賀町史 歴史編348頁)とされており、例幣使道に合戦場宿が設置される以前から「合戦場」の地名はあったらしい。大永3年(1523年)とされる「河原田合戦」からわずか70年後のことであり、この地で合戦があったことは単なる「伝説」だと断ずることはできない。
 「河原田合戦」について現在考えるうる結論としては、歴史的にみて、大永3年に壬生氏の支配地との境界付近で合戦があった可能性は十分にある。その名残として栃木市内に「合戦場」の地名が今に伝えられていると考える。おそらく、皆川正中録の作者は、伝えられている歴史的事象をベースとしながらも、読み物として、地名を含め「河原田合戦」を創作したということになろう。
 なお、栃木市史通史編593頁に、合戦場の西にある「シラジ沼」の由来として、「修羅地」(しゅらち)が「白地」(しらじ)に転じたものとしている記述がある。白地沼の由来については、矢板市にある有名な「オシラジの滝」と同様に、「シラジ」は、素焼きのすり鉢や壺を表す言葉だとする説もある。

河原田合戦の戦死者を祀るとされる升塚

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