はじめに 皆様へ
先人たちがどんな道のりを歩んできたかを知ることは、今の自分と社会の成り立ちを知ることであり、より良い未来を創造するための知恵となる。
皆川城の裏鬼門を守る位置に曹洞宗金剛寺(栃木市皆川城内)がある。その寺の一画に皆川氏歴代の墓所があり、皆川広照はそこに眠っている。広照は、言うまでもなく戦国時代から江戸時代初期に至るまで、乱世を駆け抜け、皆川氏の最盛期を実現した名将である。
広照は、寛永4年12月22日に80年の波乱に満ちた生涯を閉じるが、寛永4年を西暦に換算すると1627年に当たるので、令和9年(2027年)は、広照が没してちょうど400年の節目の年になる。
まず、下の図を見てほしい。荒川善夫氏の著書「戦国期北関東の地域権力」(1997年4月)289頁に記載された「皆川領内の村々」と題された図である。

この図は、栃木市金剛寺所蔵「皆川御譜代討死面々家名」「下野国岩田郷皆川家臣在判帳」等より作成されたものと記されているが、広照の築いた皆川氏最盛期における下野国南部の皆川領の範囲が描かれており、旧1市4町からなる現在の栃木市域とほとんど重なることに驚く。現在の栃木市の形成につながる地域圏の基礎をつくったのは、まさに皆川広照と言っても過言ではないだろう。
栃木市の形成に大きな役割を果たした広照ではあるが、当然ながら、歴史は一人の人物がつくるものではない。歴史をたどれば、栃木が広域圏として形成されるきっかけとなるのは、古代の都市域・下野国府の存在にあったことは間違いない。
そこで、栃木の歴史を知る手がかりとして、古代下野国庁の地方官吏(在庁官人)の子孫であった藤原秀郷からはじまり、小山氏・長沼氏を経て、戦国期の皆川広照に至る秀郷流藤原氏一族の盛衰・興亡を通じて、日本の歴史のなかで栃木がどのように成り立っていったのか、近年の歴史研究者による新たな研究成果を紹介しながら、現代的視点で読み解いていきたい。
「第1章藤原秀郷から小山政光まで」では、まず平将門の乱を鎮めた藤原秀郷に焦点をあてる。秀郷は、朝廷から派遣された下野国府の国司の末裔であった。母方の一族は在庁官人の有力者であり、下野国衙にそう遠くないところに居所を有していたものと推測されており、秀郷生誕の地は現在の栃木市域であった可能性は極めて高い。藤原秀郷とはどのような人物であったのか知ることから、古代栃木の源流を探ってみた。
次に、小山氏が領有した荘園を軸に取り上げる。小山氏は、藤原秀郷を祖とする下野国南部の有力一族である。小山氏の本拠はもとより現在の小山市域にあったとされる小山荘ではあるが、もともとは下野国庁の在庁官人(地元採用の上中級役人)であった小山政光を祖とし、現在の栃木市の中心部から南部にかけて存在したとされる荘園・中泉荘を領するなど、栃木市との関係は非常に深い。
そこで、藤原秀郷が築いた下野国における地盤(経済基盤)と看板(地位、名誉)のうち、栃木市と関係が深い荘園という経済基盤を小山氏がどのように確立していったのかを探ってみた。
なお、本文でも触れるが、明応元年(1492年)9月23日付け小山成長(しげなが)文書に「中泉庄杤木」との文言がある。おそらく、現在のところ確実な史料として確認できる「杤木(=栃木)」という地名の初出と思われるもので、小山氏を抜きに栃木の歴史は語れないことがわかる。
続いて「第2章 長沼氏から皆川氏へ」では、小山政光の子・長沼宗政を祖とする長沼氏の動きに焦点をあてる。長沼氏は、後の皆川氏に連なる下野の名族「関東八屋形」を形成する一族であるが、長沼氏の歴史は決して平坦ではない。南北朝の動乱期に本拠を下野国長沼荘(現・真岡市)から南会津に移し、その後再び下野国に戻るなど紆余曲折の歴史があり、皆川を本拠とするまでの歴史を検証してみる。
続く「第3章 徳川家康と皆川広照」「第4章 北条氏との最終決戦と小田原合戦」では皆川広照の動きを軸に歴史の真実に迫ってみた。これまで、広照の事績をたどるに当たっては、江戸時代に書かれた軍記物「皆川正中録」などを論拠にしている歴史書や一般書が少なからずあり、それが拡散した結果、栃木市民の間でも、広照を「皆川正中録」の記述にそって理解されることが多かった。しかし、近年、戦国史の研究が進み、これまでわからなかったことが次第に明らかになるなかで、「皆川正中録」に描かれた皆川氏の興亡が、確固たる史料に基づく歴史的事実との間に大きな隔たりがあることが明らかになってきた。
皆川氏の菩提寺・金剛寺の研究によると、そもそも「皆川正中録」は、徳川家光幼年時代に皆川広照が口述した記録を、江戸中期に講釈師が入手し、過激描写を加えるなど改変して講談化したものであろうと推測されている。つまり、「皆川正中録」とは江戸中期に書かれた講談本に相当するもので、現代の大衆小説のたぐいと考えてよい。ちなみに、同様の経緯で書かれた軍記物として明治40年(1907年)に吉原格斉が校訂を加えて発刊した「東国闘戦見聞私記」(東戦記)があるが、いずれも史実への脚色、創作がなされていることは言うまでもない。
そこで、本書においては、日本史の大きな流れをベースに、皆川氏及びその最盛期を実現させた広照が、現在の栃木市を中心とする下野国南部における領域権力をどのようにして確立させていったのか、信頼性の高い史料などに基づいて改めて考察する。
続いて、「第5章 栃木城の築城と栃木町の成立ち」では栃木城と栃木町の形成に焦点をあてて検証する。皆川広照は、現在の栃木市を形づくるうえで起点となる栃木城及び栃木町の原型を作ったとされているが、どのような意図を持って栃木城をつくったのか。そして、それが現在の栃木市の形成にどのように引き継がれているのかを探る。
最後に、「補論 明治17年 栃木県庁の宇都宮移転の背景」を書き加えた。本書のサブテーマ「藤原秀郷から皆川広照まで」とは外れていると思われる方もあるかもしれないが、実はそうではない。下野国庁が置かれていた時代から、皆川氏の時代を経て明治初年に至るまで栃木を核とした県南部地域は下野国=栃木県の歴史を動かす大きな拠点地域であった。広照が夢に描いた皆川氏の城下町栃木は、およそ300年の時を経て明治4年(1871年)11月に栃木町に県庁が置かれたことにより見事に開花したのである。
明治13年(1880年)には、栃木県下の自由民権運動家の統一を図る民権結社「下野結合会」が栃木町で発足するなど、民権運動の拠点でもあった。ところが、明治17年(1884年)1月21日、栃木県庁を栃木町から宇都宮町に移転させる一片の太政官布告によりその歴史的役割を終えることになる。
令和12年(2030年)は、「下野結合社」が結成された明治13年から数えてちょうど150年目にあたり、「栃木の自由民権運動150年」の節目を迎える。県庁移転や栃木の自由民権運動の経緯を知らずして現在の栃木は語れないだろう。明治10年代の日本史の大きな流れの中で栃木の歴史のターニングポイントを考察する。
なお、本書を執筆するにあたっては、多くの歴史研究者の著作や県市町史を参考にさせていただいた。特に、栃木県における中世史研究の第一人者である江田郁夫氏をはじめ、荒川善夫氏、松本一夫氏ら郷土の先学諸氏の著作論文から多くのことを学ばせていただき、引用・参照等をさせていただいた。先学諸氏の研究に改めて敬意と感謝を申し上げる。
各章末には筆者が実際に訪ね歩いた史跡などを紹介する「歴史探訪」を掲載した。
本書が栃木市の歴史に興味を持つきっかけとなり、読者の皆様が栃木市にある多くの史跡に足を運んでいただき、より良い未来の創造につながれば幸いである。
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公開中のページ
- 2-2 古河公方と皆川氏
- 2-3 皆川俊宗の時代
- 3-2 天正壬午の乱における家康と広照
- 3-3 北条・徳川同盟と広照
- 歴史探訪 「中泉荘 杤木」とはどこか―栃木城築城との関連を探るー
- 歴史探訪 慈覚大師円仁と小野寺の里
- 歴史探訪 太平大権現と太平山連祥院
- 歴史探訪⑩初代県会議事堂遺構・観明寺本堂
- 歴史探訪⑪栃木の民権家たちの痕跡
- 歴史探訪⑫西日を戻す山車の丈
- 歴史探訪⑬加波山事件志士の墓碑
- 歴史探訪③河原田合戦と升塚
- 歴史探訪④大中寺と謙信平
- 歴史探訪⑤長尾顕長の刀「山姥切国広」
- 歴史探訪⑥天正年間草鞍戦死諸霊碑
- 歴史探訪⑦国指定史跡 西方城跡
- 歴史探訪⑧喜多川歌麿と歌人 石塚倉子
- 歴史探訪⑨江戸彫り後藤流彫刻師と田中一村
- 補 論 明治17年 栃木県庁の宇都宮移転の背景
- 補ー2 県庁移転運動とその中心人物
- 第1章 藤原秀郷から小山政光まで
- 第2章 長沼氏から皆川氏へ
- 第3章 徳川家康と皆川広照
- 第4章 北条氏との最終決戦と小田原合戦
- 第5章 栃木城築城と栃木町の成立ち
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