歴史探訪⑦国指定史跡 西方城跡
西方城としだれ桜
西方城に行くには桜の季節をお勧めする。
西方城は、「栃木の景勝100選」に選ばれている金崎の桜堤から真西におよそ3kmのところにある。城の麓には西方氏の旧臣・中新井家のしだれ桜があり、黒塀を乗り越えて枝を垂らしており、秋田の角館を彷彿させるような風情も見られる。

中新井家のしだれ桜(個人宅)
ちなみに中新井氏の九衛門が、慶長8年(1903年)に西方藩主となった藤田信吉から、知行地70石(大田沢50石、飛地の大内川20石)を与えられたとする記録が残っている。(江田郁夫著「下野の中世を旅する」 栃木県立文書館寄託三澤毅家文書を読む 190頁)中新井氏は、藤田信吉が改易になったあと、西方の地を領有した宇都宮藩主本多正純に仕えるが、正純が改易になったあとは、同じ旧臣である三沢氏や藤平氏とともに、奥州棚倉藩主・後に白河藩主となる丹羽氏に仕えている。(荒川善夫著「戦国・近世初期の下野世界」336頁)今に残る西方の中新井家は、おそらく中新井氏一族の者のうち故郷の西方の地に残って先祖の旧跡を守ってきた者の御子孫の居宅と推察される。
西方城に行くには、東武鉄道の東武金崎駅を起点とすると直通バスはないので徒歩40分はかかる。車で行く場合は、長徳寺のすぐ隣に西方城址見学者専用の駐車場があるので便利だ。西方城は、標高221mの城山の山頂から東麓にかけて築かれた山城である。山頂の西方城の東の山麓にいわゆる二条城と呼ばれる城跡もある。
最近の調査研究では、二条城を西方城の内とし、両者を一体として捉える考え方が主流である。そうした考えのもとに、本書では、西方城の山頂地区を「山頂区域」、東山麓の二条城を西方城の「山麓地区」と、区別して表記することとする。駐車場からは山頂地区と山麓地区とでは登城ルートが違うので注意するとよい。
西方城については、国指定史跡への登録を目指して、栃木市教育委員会が平成31年(2019年)から調査を開始し、令和6年(2024年)1月に詳細な調査研究成果を「西方城跡総合調査報告書」として取りまとめているので、以下それをベースに、多少地元民としての補足的な説明・見解を交えて記述したい。
西方城の歴史
西方城は宇都宮城主宇都宮氏の一族である西方氏が築城したといわれている。
築城年代を記した確かな史料はないが、西方町の実相寺に西方氏の初代として祀られている景泰が、15世紀後半(1463年~1477年)に西方を領するようになって、この地に城が築かれた可能性が想定されている。
では、景泰とはどのような人物で、どのような経緯で西方を領するようになったのか。
景泰は元々伊予宇都宮氏(鎌倉時代に下野国宇都宮氏から分流した九州・四国地方の一族)の子孫とされ、伊予宇都宮氏は京都にも拠点をおいていた。その景泰が、西国からはるばる下野に移住してくるには相応の理由・きっかけが必要である。
移住の理由・きっかけは、享徳の乱(室町幕府の支援を受けた関東管領上杉氏と鎌倉公方足利成氏の間に起きた28年にわたる戦乱)のさなか、下野国宇都宮氏当主の宇都宮等綱(ひとつな)が足利成氏らに城を追われて在京していた時に、等綱と景泰は何らかの接点を持ったと考えられている。長禄2年(1458年)、等綱が将軍足利義政に宇都宮復帰(当主・宇都宮明綱は等綱の子だが鎌倉公方・足利成氏に与同していた)を命じられた際に、景泰は等綱に同行し下向してきたものと推測されている。
等綱は、一時、奥州白河直朝(幕府=上杉方の領主)の元に身をよせることになったが、宇都宮復帰は果たせず長禄4年(1460年)白河の地で没した。等綱没後、景泰は等綱の次男・武茂正綱を頼ったとみられる。正綱は兄明綱の早世後、寛正4年(1463年)に宇都宮氏の家督を継ぐことになり、身をよせていた景泰は宇都宮氏の領地・西方の地を領するようになったと推測されている。
西方の地を領した景泰はその後西方氏を名乗り、西方城の築城に取りかかったが、今に残る西方城を一挙につくったわけではない。城はその役割や築城技術によって規模や構造が変化する。「城は変遷する」ことを前提に考えなければならないとされている。
西方城の変遷については、概ね次のような理解の仕方がなされている。
第1段階 戦国期(~1590年)小田原北条氏滅亡まで
第2段階 結城秀康段階(1590~1600年)小田原北条氏滅亡~関ヶ原合戦まで
第3段階 藤田信吉段階(1600~1615年)関ヶ原合戦後~藤田氏改易・西方藩廃止まで
各段階の状況を概括説明すると次のようになる。第1段階は宇都宮氏の一族西方氏として、主家を守るための宇都宮西南部の防衛拠点であった。皆川氏の領域と接する境目の城としての性格も強い。天正元年(1573年)9月の粟志川城の合戦では、反北条氏の鹿沼城主・壬生(徳雪斎)周長(かねたけ)が佐竹氏に援軍要請をする書状(天正元年(1573年)比定 9月7日付け佐竹義重宛て壬生周長書状)に「西方へ日々二百騎・三百騎差し遣わされ候わば、(皆川・壬生氏らの)粟志川張陣の義は叶うべからず候」とあるように、臨戦時に西方城は500騎(総勢千人程度)を超えるような加勢の滞在・籠城にも対応が可能だったということである。
ちなみに、西方城を巻き込んだ粟志川城の合戦の概況を現代の地図に落としたものが栃木市教育委員会によって作成されており、「第2章2-3皆川俊宗の時代 粟志川城の合戦」に掲載しているので御覧いただきたい。
第2段階は、天正18年(1590年)小田原北条氏が滅亡した後、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦までの結城秀康が領主であった時代である。
結城秀康は、徳川家康の実子であり、結城晴朝の孫娘と縁組して結城氏の家督を継いだ。この時期、特に、宇都宮氏が慶長2年(1597年)10月に改易されるまでは、実質的に徳川領国の北限に位置し、以前から石田三成と関係が深い宇都宮氏及び会津の上杉氏に対する境目の城の意味合いが強かったとされている。

西方城縄張図と想定される登城路など(西方城跡総合調査報告書)
「西方城跡総合調査報告書」によると、山頂地区への登城路は橙色で示した東側北登城路と黄色で示した東側南登城路の2ルートがあり、その構造から築造時期が異なることが指摘されている。すなわち、東側北登城路は矩形の小口を持たず、スロープを基本とした構造であり、戦国期の近隣城郭に見られる構造である。それに対し意識東側南登城路は、矩形を意識して屈曲させた通路が設定されており、要所には嘴状虎口(くちばしじょうこぐち)や馬出しに近似する構造を持つ小郭が普請されており、道沿には石積みがあったとしている。また、山麓地区(二条城)の主郭は天守台を連想させる普請が見られ、これも結城秀康の段階と考えられる。この構造は天正18年(1590年)以前の北関東で普請されたと考えられず、織豊城郭との関連が想定される。そうなると、結城秀康か藤田吉信が領主であった時期になるが、関ヶ原合戦の後に、このような普請をする必要性は考えにくく、北の脅威に対する備えとして結城秀康段階の普請であったと考えるのが妥当とされている。
発掘調査では結城秀康段階の普請と推測される土塁石積みが、山頂部および山麓部で確認されている。

山頂部郭3-1北 土塁石積み(西方城跡総合調査報告書)

山麓部郭19-1(主郭) 西側土塁石積み(西方城跡総合調査報告書)

山麓部郭19-1(主郭) 土塁石積み(主郭東側下の帯郭から筆者撮影)

山麓部郭19-1(主郭) 東内側土塁石積み(筆者撮影)
「栃木市ふるさとの城郭群再発見事業専門者会議委員」の委員である斎藤慎一氏は、2022年9月25日に栃木市で開催された「西方城跡シンポジウム」の講演の中で西方城の遺構について次のように述べている。
山麓地区では主郭の拡幅、山頂地区では東側南登城路および北登城路の二虎口の改修は、1595年から1597年ころに行われた可能性が高い。なぜなら、この間、徳川派と石田派の境界線が、宇都宮ー壬生・西方付近にあったため、家康は石田・上杉グループ勢力への備えとして最前線基地となる西方城の改修を実子である結城秀康に命じたものと推定する。
斎藤氏の見解を補足して説明すると、1595年は西方領が結城秀康に加増された時期(市村高男氏論文「惣無事と豊臣秀吉の宇都宮仕置」193頁)、1597年は宇都宮氏の改易があった年である。家康を岳父とする蒲生秀行の宇都宮移封により、それ以降は、石田・上杉グループ勢力との防衛ラインは大田原城を拠点とする北那須地域に移っていくので、これにより西方城の戦略的重要性は失うものであり、この間に西方城の大改修が実施されたとみる。
次に、第3段階として、関ヶ原の合戦で功を上げた藤田信吉が西方に入封する。この時代になると列島各地で山城が不要になる。山から下りて、麓の陣屋が政庁となる時代で、西方城も中心部を山頂から山麓地区(二条城)へ移した。しかも山麓地区の主郭を破城して主郭を利用不能としている状況をみると、山麓地区でもその中腹(東郭)へと政庁を移転させたものと考えられている。
このように、西方城跡は、保存状態も良く、城主の交代や北関東の政治的緊張と連動して山城の規模や構造も大きく変遷し、当該期の城館の形態と変遷や築城技術を知る上で重要と評価され、令和6年(2024年)10月に国指定史跡に認定された。
宇都宮氏改易と西方城主のその後
宇都宮氏の改易理由には諸説あるが、大きく二つの説が指摘されている。
ひとつは、浅野長吉(長政)による検地の結果が大幅な増分となった(申告していなかった所領を把握した)。結果、これまでの国綱の所領高に虚偽があったとされ、秀吉の怒りを買ったというものである。秀吉は、嘘をついた国綱を許し難かったというのである。
二つ目の説は、宇都宮氏の家督を巡るものである。後継者のいなかった国綱は、秀吉の部将である浅野長吉の子・長重を養子にとの申し出を拒否したため、とされている。
一方、宇都宮氏の改易には家康が関与していたのではないかとの説がある。この説は、家康は、関東における自らの防衛ラインを北上させるために、宇都宮氏の改易を暗に支援したというものである。思うに、北関東の宇都宮氏は、佐竹氏とともに石田・上杉グループに近い大名であるため、関東一円の支配を盤石なものにしたうえでいずれ上杉と対峙することを想定している家康にとって、排除したい大名であったことは間違いない。これは後に江戸幕府において、将軍のお膝元である関東から外様大名を排除する論理と同じである。家康は、自身に近い浅野長吉を使って、結果的に石田・上杉グループに近い宇都宮氏を関東から排除し、自身の影響下にある娘婿の蒲生秀行に宇都宮領を与えようとしたというのも可能性としては否定できない。
荒川善夫氏は、著書「戦国期関東の地域権力」のなかで宇都宮氏の改易について次のように指摘しており興味深い。
彼(国綱)を「指南」する立場にあった浅野長政を含む徳川・前田・伊達氏などのグループ対国綱などを含む増田(長盛)・石田(三成)などのグループという図式で、豊臣政権内部の権力闘争にまきこまれた。
北条氏滅亡後、西方領が結城秀康領となるにあたって、西方氏はその後どのような扱いになったのだろうか。
豊臣秀吉による宇都宮仕置後、西方の地が結城秀康領になる。代わりに、西方氏は宇都宮氏領内の芳賀郡赤羽に転封されることになった。西方氏は天正18年(1590年)5月27日に宇都宮国綱の一族・家臣団とともに小田原の陣にいた秀吉に出仕していたにもかかわらず、なぜ転封になったのか。
このことについて、西方町史93頁は次のように説明している。
日光、鹿沼領は、ほぼ一貫して北条方であった壬生氏の勢力圏であり、西方領はその中に突出した形で存在した宇都宮氏の勢力圏であった。小田原攻めの後、下野の安定した統治を望んだ秀吉は、そうした錯綜した状態を解消し、西方領を含む形で旧壬生氏勢力圏のすべてを、信頼する結城秀康に与えたとみなすべきである。
芳賀郡赤羽に転封された西方氏は、元々宇都宮氏の家臣扱いだったので、慶長2年(1597年)10月、宇都宮氏の改易と同時に領地は没収されたものと推測されている。その後、正保年間(1644年~1648年)頃、上杉征伐時に軍功のあった芦野氏が芳賀郡上赤羽を含む8か村を領有することになった際には、西方氏の赤羽転封の際に付き従った家臣・藤平氏が、芦野氏の下の庄の代官補佐役として取り立てられている。(「栃木県の歴史散歩」芦野氏の下の庄陣屋)藤平氏は、西方氏改易後も赤羽の地に土着していたのだろう。上赤羽には現在も陣屋構えの藤平氏の屋敷が存在している。
一方、結城秀康は、関ヶ原の合戦の功により、11月に越前68万石へ加増転封になり、代わって西方領には藤田信吉が入封したが、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣後に改易になり、西方藩は廃藩となった。
藤田信吉は曹洞宗実相寺の本堂裏手の杉木立の中にひっそりと眠っている。

藤田信吉の墓と伝えられる五輪の塔
その後の結城氏はどうなったのか。
越前に加増転封になった結城秀康は慶長12年(1607年)閏4月に34歳で病死してしまう。その後、嫡男忠直は結城氏の名字を捨てて松平の名字を名乗るようになる。結城氏の断絶を恐れた秀康の養父・結城晴朝は、家康に願い出て秀康の五男直基をあらためて養子とし、結城氏の家名を譲り与えたが、慶長19年(1614年)晴朝の死去後、直基は寛永3年(1626年)に結城氏を改めて松平氏を名乗ることになる。
これをもって、小山政光の子・結城朝光以来400年以上続く武家の名門結城氏は完全に終焉した。
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